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岡倉天心とフェノロサ

みなさまこんばんは。
今日中に解決しておきたいことがあるので,今日中にこのブログを書きあげたいと思います。
私は中学生の頃からフランスの印象派が好きす。
でもフランスと日本の国民性はこうも違うのに,なぜ芸術面ではこんなに融合して新しいものがドカンとできてしまうのか不思議でなりませんでした。アールヌーボーとかね。
ほんで,岡倉天心やフェノロサからそこったらへんを分析して,
完璧にわかったところでブログを書こうと思っていたのですが,
まったく筆が進まないので(笑),ちょっとずつわかる範囲で肩の力を抜いて書いていこうと思います。

<いまんところ知っている小ネタ>
・フランスで大規模な都市開発がなされて,画家の用いる色彩がガラリと変わった
・モネが印象主義を始めたと言われている
・日本人は当時浮世絵の価値がわからず,気泡緩衝材(プチプチ)に使っており,その気泡緩衝材と化した浮世絵と輸出物が共にヨーロッパに渡った際にヨーロッパ人が浮世絵の素晴らしさを知る
・日本の浮世絵を見たフランス人画家はこぞって浮世絵を模写する

今まで,どうにか印象主義と岡倉天心を繋げて思考を掘り下げてみようと思っていたのだが,何を調べてもどうにも上手くいかない。よって,一旦印象主義を切り離してまっさらな気持ちで岡倉天心を見ていこうと思う。

<岡倉天心の一生(スッ飛ばして大丈夫です)>
岡倉天心は1863年、横浜に生まれた。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていった。
学生時代はお雇い外国人教師アーネスト・フェノロサに政治学、理財学(経済学)を学ぶ。
天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深める。
ここで天心は日本のよさを再確認したのではないかと考えている。

1880年東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わる。1883年頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていく。
1886年フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張した。帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走する。
→実は数日後,東京芸大に後輩と行く予定!!!!

1890年、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。
急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになる。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、1898年に校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設した。
その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めた。
横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指した。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品された。
しかし、彼らの行動は日本国内ではなかなか受け入れられなかった。こうした中で院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていく。
1901年、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863-1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合うが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)やその一族と親交を深めた。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げていく。
 1904年、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになる。一方天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博した。また、天心は講演会や英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介した。

<岡倉天心の業績(ここもスッ飛ばして大丈夫です)>
文明開化という時代風潮の中、明治はじめの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していった。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになる。特に、1884年、法隆寺夢殿を開扉し、秘仏であったの救世観音像をアーネスト・フェノロサとともに拝した時の驚きと感動を「一生の最快事なりというべし」と熱く語っている。
1889年、天心は帝国博物館理事および美術部長に就任し、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に推し進めた。
天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、1897年に公布された「古社寺保存法」に反映されている。また、天心の古美術保存の精神は、1929年の「国宝保存法」、さらに1950年の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっている。

ま,こんな感じです。
あと,私が結構好きな松岡正剛さんが天心について熱く語っておりますので,こちらもどうぞ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0075.html

<廃仏毀釈と日本人>
古社寺保存法制定のあと,岡倉天心がそれに基づきいよいよ仏像修理に取り掛かろうとしたとき,怪文書が流されたそうです。
「岡倉は行く万野国の財産を費やしておきながら,美術の発達に背を向け,その進歩を妨害している」
この怪文書によって天心は公職を追われたそうです。
「美術の発達」の概念ってなんだよ,って感じですよね。今までの日本の美術文化を全部無かったことにして,
アホ面掲げて海外見てればそれで発達と言えるかよって。
なんだろう,たぶん天皇が東京にいった後のなんか国策かどっかの国からの指導なのか知らんけど,廃仏毀釈という急進的稚拙で単純な思想と行為は,「自尊心の低さ」というある種日本人の国民性が丸出しになった結果とも取れるんじゃないかと私は思ってる。たぶん,中国の文化大革命とは性質が違うのではないか,と。

<フェノロサについて>
次に,フェノロサ。アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。
フェノロサを調べていくと,日本人はフェノロサに感謝し自分の国を見直したんだけど,当のフェノロサといえば,当時魔女狩りを狂信的に実行していた保守的な自分の故郷(セーラム)を好きにはなれなかったみたい。セーラムの人々は彼をどう見ていただろう。
私がセーラムをこよななく愛するセーラム生まれの人間だったらどうだろうか。裏切り者だと晒し者にするだろうか。売国人だと罵るだろうか。
どこかの土地で感謝している人がいるならば,そういう人がいてもいいじゃん,と思うかもしれない。
わからない。キレイな心を持っていますキャラでもないしwwww
でもさ,フェノロサは,ホンマは自分の故郷を一番愛したかったんかもしれん。わからんけど。

賛否両論としての話に,日本の作品を海外に持ち出しよって,みたいな意見もあるらしい。
『平治物語絵巻』,尾形光琳筆『松島図』(ともにボストン美術館所蔵)など国宝級の美術品を海外に流出させたとして批判を受ける方も多いみたいだけど,これについては当時の日本人がゴミ同然に扱っていたものを保存するためだったという意見もあるみたい。私は同時を知らないから何を言っても戯言にしかならないんだけど,プチプチがわりにしていたという話を事前に知っていたので,フェノロサは本当にひしひしと危機を感じていたんだと思う。
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