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可視化されない芸術

<可視化されない芸術>
 私は長い間、自宅アパートにある本棚に芸術哲学関連の本をインテリアのように置いているが、既に一年も経過し、ホコリを被っている状態で、未だに読めずにいる。
 よって、芸術哲学に関してはとても関心があるが、さらっと書くに留めておくことにする。
1910年代半ばの芸術思想・芸術運動に、ダダイズムというものが起こった。それは、第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底にもっており、規制の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とした。ダダイストの一人にマルセル・デュシャンがいた。デュシャンはフランス出身で、のちアメリカで活躍した芸術家である。
彼の作品に「泉」というものがある。それは、見るからに便器の形をしている。私がその作品の写真を初めて観た時、「フッ」と鼻で笑ってしまった。これが芸術と呼ぶならば、面白い形でシニシズムやアイロニー、嘲笑を表現したな、と思った。
話は反れるが、その「泉」は、最近では「噴水」と和訳すべきではなかったか、という意見も出ているそうだ。なぜならば、噴水の意味が作品に可視されない男性性器であるならば、今、目の前に置いてある作品(便器)は噴水を享受するもののメタファだと考えると、女性性器の象徴だと考えることも可能だからだそうである。
もしそれを「噴水」と呼ぶならば、そもそも物体に作品名をつけずに、作品を見ている人の立っている位置がちょうど作品名として完成していると考えられるので、「噴水」というのは、その便器を見ている人間を指しているんですよーという暗号が隠されているのかもしれない。可視させない芸術。もし私のこの仮説が妥当だとすると、デュシャンは大きく芸術解釈のパラダイムを拡大させたのではないかと考えられる。
 2006年の「ダダ展」で、一人の男性が「泉」をハンマーで叩き、それを「芸術的パフォーマー」と弁明した事件があった。これについて、脳科学的に言うと、暴力を司る部位と性的欲求を司る部位は非常に近いと言われているので、そのような行動を犯しても不思議は無いとも考えられる。
 また、デュシャンの作品を破壊する行為は、性的欲求を暴力で満たすというメタファを具現化した、「行為」という芸術、と捉える事も可能である。もう少しわかりやすく書くと、女性性器を破壊したくなる衝動。もしそれを芸術と呼ぶならば、男という生き物はなんて愚かなんだ、と思う。

<理論武装によるプレゼンテーションはいかに通ったか>
 2010年、日本の現代美術家である村上隆の作品展がフランスのヴェルサイユ宮殿で開催された。
 当時、「ルイ14世の絶対王政を象徴するヴェルサイユ宮殿で、こうした展覧会を開催するのは違法」だとして、フランスの君主制主義者たちは反対していた。事実、展示された作品には性的なメタファを彷彿とさせるものが多かった。
 当時のヴェルサイユ宮殿美術館の館長であったジャン・ジャック・アヤゴン氏は、論争と検閲の区別はきちんとつけるべきだと強調した。「ある映画が嫌いだからといって、その上映画を禁じたとすればそれは社会的な検閲だ。現場で作品を見ずになされている批判は、偏見によるものだ」と語った。
 私は個人的に村上氏のビジネスモデルの消費者になろうとも思わない。けれど、村上氏の著書は読んでいて面白いと思ったし、私の考え方や独特な孤独感、そして自国に対するナショナリズムとの対峙の方法など、共通する部分が多かった。
 私の疑問は、論争と検閲と言っても、そんな単純じゃない問題だったろうに、村上氏の企画のプレゼンが通ってしまったことだ。どんな芸術哲学の理論武装をしたのだろうか。

<素敵なミュージアム企画>
 これまた賛否両論の多い芸術家に、アンディ・ウォーホルがいる。批判される理由の一つに、「ただのゼニ稼ぎ」に芸術を利用しているだけなのではないか、という意見がある。しかし、彼は心理学や社会学を学んでいたということで、彼なりの訴えを芸術に練り込んだとは考えられそうである。
 しかしやはり、ウォーホルのやり方をよく思わない人は少なくない。そのことを踏まえて私はこう思う。雇用産出やケインズ政策のために美術館というハコを大量に作って薄っぺらい「芸術大国」を名乗るくらいなら、「作品におけるプレゼンテーションの歴史ミュージアム」とか作れば、国民の芸術哲学の民度も上がるのではないか。

<芸術と著作権>
 最近、批評家の東浩紀に取り上げられて、これまた物議を醸し出した現代アート集団に、カオスラウンジがある。カオスラウンジは、以前ピクシブという画像投稿型SNSで拾った絵をコラージュしてインスタレーションした作品を商業化し、それが著作権侵害だとして問題となった。
 匿名をビジネスに持ち込む構造そのものを芸術と呼ぶならば、それは資本主義国家みたいな顔した社会主義国家の日本を嘲笑した芸術ではないかと私は考えた。
 しかし、倫理性や良心あたりで訴えられて法廷で論破せざるを得なくなった場合、己の芸術性を理論体系化できるだけの法哲学的思考は必須だったのではないか。
 あるいはそうではなく、カオスラウンジがなんでもかんでも「これは芸術なんだ」と、とりあえず言っておけば全て許されると思っていたならば、それは愚かだとみなされるのも当然だと思う。
 でも、芸術哲学は法廷で論破する手段として用いるような扱いではなく、できれば目的として扱える生活を送りたい。
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