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はじめての心理哲学 そのに

さぁぁて引き続きいってみましょー!!

第3章 還元主義

内容は理解出来たんだけど、私の好奇心が割と静かで、何もツッコミようがなかった笑
なんだろう、私は還元主義を前提として心理学が存在していると今のところ考えているから、「何を今更そこを議論しているの?」ってなっちゃう。もちろん還元主義による心理学アプローチには様々な危険を孕んでいるのだが、どれもこれもバツをつけていったら研究なんか進まないじゃん、って思う。

第4章 還元主義と心身問題

形而上学っていう言葉がカッコよすぎてすっごく憧れていたんだけど、やっぱり私の考え方とは違うらしい。
心理学の定義する「心」っつーんは、物質の世界で法則的原理によって存在しているらしーぜ!

私は、ずっと哲学(というかニーチェに)というものに憧れを抱き続けてきたけれど、実家の本棚で眠っている大量の哲学の本を手に取る間もなく、結局心理学の知識が蓄積されていき、心理学徒という立場から哲学にアプローチするという人生になってしまった。それでよかったのかはわからないが、決定論の立場でサムシングを考える自分の立場に納得しているので、よしとしましょう。

ほんで、心身問題についてのさまざまな立場について
A、二元論
1、相互作用説
2、随伴現象説

B、一元論
1、観念論
2、唯物論

が紹介されているのだが、私は二元論では随伴現象説を、一元論では唯物論を支持するかな。

うーん、還元主義についてホントに何もコメントが浮かんでこない。

第5章 心理学は科学になりえるか

えぇっとー、この章については、要約をまとめてみましょう。

・心理学は、この世界についての知識を調査したり公式化したりするための、科学者によって同意された方法を研究法として採用した。

・しかし、その研究方法の問題点として、条件づけられた連合という単位に還元することによって理解しようと努力すれば、その複雑な道具立てにも関わらず、心理学者にとって理解すべき人間というものは残っておらず、必然的にあるのは部分の集合だけということになってしまう。→物象化

・人間は世界の一部分であって、何かしら世界から切り離された存在ではない。人間は、単に世界の内部で動き回っているのではなく、いわば世界の構成要素。

・還元主義の立場に立てば、人々が握手をするとき、その場で観察できる物理的事象、つまり筋肉による行動は、その行為自体の背後にある触知しえない社会的な意味よりもより実在的な事象であると主張することができる。しかし、重要なことは、握手とはただの単純な行動ではなく、解釈される行動。

・行動に対して理解しようとする努力は、その刺激についての期待とか確信、あるいは少なくともその刺激が何を表現しているのだろうかという、解釈を伴う。解釈とはまた、観察者がすでに世界について知っていることを呼び起こすという要素も含んでいる。→社会的「世界」は、直接観察を待ちかまえているような「もの」ではない。

・歴史というものは、選択を受けた事実なので、必然的に偏向をもたらす。観察され実証されたものの背後には信じられないほど多くの量の理論がある。観察者は、観察下にあるものの外側に立つことは決してできない。実際、一般に、観察そのものが観察されているものを変化されることが認められている。

・心理学者や精神医学者が患者を伝統的な科学者な態度で見るやいなや、患者を人間として見ることは不可能になってしまう。→生理学的心理学の神話

・社会的世界は絶えず社会的に造られ維持される過程にあるのであって、そのような過程に入り込んでいくためには、単純に実験する方法よりははるかに繊細なアプローチを必要とする。

・実験的還元主義は、必然的に、研究者たちの造った人工的な「ミニ世界」で「動き回る」ように求められたとき、人々がどのように行動するかということの分析に導かれる。このように求められた法則的な関係は、実際には実験室のなかにのみ存在しているということができる。しかし、実験室の外ではものごとははるかに複雑であり、まさしくこの複雑性ゆえに、実験室という限られた条件の下で観察される現象を現実世界に実際に移し換えることは不可能だと示唆される。→現実世界というシステムは、確かに機械的であるかもしれないが非常に複雑なので、次に何が起こるかを知ることは不可能。

・まとめ→採られるべき研究方法は、まさしく心理学のいかなる領域を研究しているかによって異なると結論するのが、賢明なのではなかろうか。

第6章 氏か育ちか論争

どっちもじゃね?っていうのが近頃の通説だと思います。
遺伝と環境の間に相互作用が起こっている話で強調されているのが、脳の特定の環境への順応性なのだそうですが、その順応性について私は、ちょっともぞもぞと考えてみました。

歴女な話をするけれど、例えば武士が戦に負けて島流しされたとするじゃん。で、その武士はその島に順応するのかなぁと。数年後、「戦力としてまた復帰せよ!」みたいな手紙が来ることを期待して、順応しようとしないかも知れないじゃん。そこに順応しちゃったら、戦のための自己成長はたぶん期待できないから。
その話から繋がるんだけど、ってかケーススタディの話になっちゃうんだけど、「離人症」っていう症状があるじゃない?これって、後天的に発症する理由として順応性を考えることができると思うの。

「この環境に順応してしまったら、もしかしたら素敵な人生は送れないかもしれない」と思い続けてしまったゆえ、その順応に対する拒否が、暫定的のはずがデフォルトになってしまう、という仮説。

また、本能に関する話も出てきたけれど、人間の、社会的協同行動とか、生活環境に対する普遍的で安定した信頼感って本能?後天的なもの?どっちなんだろうね。

それから、視覚システムの話になるんだけど、ある実験の話をするね。子ネコちゃんを、知覚能力が十分健康に発達するようには育てることができないような環境においた。子ネコちゃんたちは、生まれてからずっと、毎日数時間、何匹かずつ、縦縞の描かれたドラム缶に入れられるときを除いては、真っ暗な所でそだてられた。その後子ネコちゃんたちは、縦方向の刺激に対しては正常に反応するけれども、横方向の刺激にたいしては「盲目」となることが発見された。

この事実を踏まえてちょっと考察。育った環境が極端に視覚的に統制されていたヒトの場合、絵画を見ているとき、視覚的無視を起こしている場合もあるって事?

で、もっと空想を拡大させると、この画家の絵が好きな人は、その絵に対して、たぶん視覚的に大きな反応があると考えられるわけで、(投影の話はちょっと置いといて)この画家が好きな人はこのような性格特性がある、みたいな研究はないのかなーと思ったり。

第7章 行動主義

行動主義の話はよく知っておるので今更何もコメントすることが無いのですが、一つだけ面白い文章があったのでそれを取り上げてみまする。

p.189「個人を形成するものはただ環境のみであるという考えは、正義と悪という概念の破棄をもたらす。なぜなら、人は、自分が成ったものに対して、どのように責任がとれるだろうか。もし、環境中の外的要因が行動を決定し「形作る」という主張に従えば、このことは個人から自己制御の能力を奪い、決定的な制御要因を環境に与える結果になるのではないだろうか。このような「環境決定論」は、個人から自由と責任とを剥奪してしまうのである。」

たぶんね、人間は、選択しなかったものにさえも、責任を負うことを前提として社会が形成されているんだと思う。
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