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はじめての心理哲学

論争のなかの心理学 アンディ・ベル

心理哲学を扱う講義が、私が通う大学には無いので、こうやって寂しくクラシックを聴きながらブログを書いておるわけですがww

えっと、お恥ずかしいのですが、心理哲学というものを扱う心理学関連の本を初めて読んだのですな。だから、今まで自己流で考えてきた内容に関してはアウトプットが多いのですが、逆に考えてこなかったことに関してはなかなかアウトプットする言葉が無かったので、これから掘り下げていくために頑張らねば!と思いました。

今回のブログでお世話になるのは、アンディ・ベル著(もちろん和訳された本です)『論争のなかの心理学』(新曜社)です。

さー張り切っていってみましょー!

第1章 心理学の論争とは?
ここは、この本の要約なので飛ばします。

第2章 自由意志と決定論
読者のみなさまは、どっちの立場ですか?私は決定論者です。なぜなら、私の考える「意志」は、環境や得た情報が反映されたものだと考えており、その環境や得た情報によって決定されるものだと考えているから。

だけど、何もかもを外部のせいにしてしまうのではなく、現在暫定的に決定されている自我は今後の環境や情報によって常時変わっていくものなので、現在のその自我で考えたことで未来の自分の人生が自由に開かれていったら嬉しいと思います。

「そういうぽまいも自由に政府が嫌いだとかルサンチマンだとか言ってるじゃまいか!!それは自由に意思を持っているということにはならないか?」とツッコまれそうですが、いやいや。

「自分はルサンチマンの考えを持っている」と思っていても、実は小さい頃のビンボー体験や親の思想をインプット、学習して決定された自我によってそう言っていると仮定できるので、一概にそう断定は出来ない。

「それでもぽまいは大学入学時、一人暮らしを始めて自由だ!と思ったではないか」とツッコまれた場合。

その時は確かに「漏れは自由だ!!!!」と自負していても、自由だ!と思考している自分は、今まで経験し、得てきたリソースにより、自由でない状態と相対的に比較することによって決定されていると私は考えているので、自由であることと自由と感じることは一致しないと言える。

「じゃあ結局、意思というものは必要ないのか」と問われた場合。

多分意志とか自我とかいうのは人間が自分の遺伝子を存続させるためにいつの間にか発明したものだと思うので、必要が無いとは言わない。自由意志と意志の意味は多少違ってくるが、私たちが生きているこの社会が、意志が反映されるものであれば嬉しいよね。

p.19「決定論の主張では、よく考えた結果も実は決定されている」 について。

私もそう思う。なぜなら、考えるためのスキーマは、その人間が今まで生活してきた環境や情報から形成され、その形成されたものが考えるための材料となるから。したがって、結果はその結果を導き出す人間の経験やリソースに決定される。

「すべてがあらかじめ決定されているのなら、なぜわざわざ人間は熟慮する必要があるのか」とツッコまれた場合。

自分の経験を踏まえた上で、「ここは熟慮した方がいい」と判断したからでないか、と答える。

p.26「自分自身の内観的な説明、つまり自由であるという感じは、実のところ、誤りであるということではないか」について。

うーむ、別に錯覚でいいんじゃない?「自由だ」「幸福だ」とかっていう感じはあってもいいと思う。私もそう感じたいから色々模索している訳だし。ただ、それは主観的な話であって、普遍的法則とは言えない。

話はずいぶんと変わりますが、生物学的決定論のところで、ホメオスタシスの話が出てきたので、私は国家論でホメオスタシスの言葉を使ってみようかと。

私たちの行動の目的が、子孫の生存を確保することだとしたら、日本では、政府による子どものための投資に対してジッサマバッサマが色々文句をいうような現状は、「国家」という共同体で、子孫の生存を確保するための社会的協同行動がはかられていない、つまり日本国民のホメオスタシスが上手くいっていないと考えることができる。

それから、すっごい「実存主義」とか「サルトル」とか憧れていたのに、実存主義が書かれている文章を読んだら、「あ、私の考え方と違う」っていう悲しさに見舞われてしまったww
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