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認知的不協和

さて。あなたは、認知的不協和という言葉をしっていますか?

うぃきより。
認知的不協和は、人が自身の中で矛盾する認知を同時に抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。

今日は、私の個人的な葛藤のお話をしていきましょう。

先日私は、臨床投影法という臨床系の講義中にSCTという心理テストを行い自己分析を行ったのです。

自分は割りと社会にコミットしようと能動的な人間であると認識していたけれど、

分析結果によれば、学習心理学的に言えば、学習性無力が発生してしまったと考えられる結果となったのです。

どんなに努力しても「生きている感覚」という報酬は得られない、ということを学習してしまっている。

不協和を認知変容で正当化する自転車操業の努力にも疲弊してしまっている。

不協和を回避することができないほどに乖離しすぎているところまで来てしまったのです。

絶望ですね。

生きている感覚の無い、終わらない現実的日常と、どうにか実りのある人生にしたいという理想的日常の乖離は、

それはつまり理想的全能感を諦められないピーターパンシンドロームに他ならないのですが、

何か、大きな問題を見ないようにしてきたものそれが積み重なりすぎたための結果なのではなかろうかと考えています。

それは、小学生の頃から頓着しなかった対人関係だということは簡単に創造がつきますが、

対人関係は社会的協同行動や愛着行動に関連があると私は考えています。

私は、生きている感覚はきっと別の組織にあるという希望にすがりつき、現在いる、「本来はいるはずでなかった組織」

に順応するための毛繕い行動(たとえばたわいもない会話など)に時間など割かない、愛着もわかない、という傲慢な態度で生きてきてしまいました。

自分の物理的所属組織が自分の納得する組織であれば、社会的協同行動も起こる。対人関係に時間を割こうとも思える。愛着もわく。

しかし私は傲慢にもその所属意識と愛着観念と協同行動の不一致は小学生の頃からあり、

不覚にも、その不一致が最後まで埋められずにいたわけです。

努力してつもりが何の成果にもなっていないですよね。

お前ホントに努力したんかよって。

哲学的な話になるかもしれないけれど、自我の敷衍先に組織があると思う。

私は、自己愛はものすごく強いけれど自分は愛していない。

つまり自我の敷衍先である社会や共同体を愛せない。
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