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内田樹教授の本を読んでみたんww

んとねー、内田樹さんという学者の「下流志向」と「日本辺境論」を読みました。

なるほどねーーーと思うことが多々ありました。
まぁ言ってみれば、「ガッツリ働く学者が書いたニート論を、ガッツリニート視点でニート哲学を構築した人が読む」という構図になりますねww
勝手に内田先生にツッコみますん!


第一章 学びからの逃走
「教育」についてはその価値を改めて言うまでもなく貴重だという前提、神話が既に崩壊している、でも教師はそれを知らない、あるいは知らないフリをする。教師は生徒に振り向いてもらうために仮に教育に付加価値をつけていようとも、上手にマーケティングを考えていない。でも、そもそも教師がマーケティングを考えなくてはならないのか。
私はまさにこの教育に対する付加価値を教育システムに求めていた。私は下流の家庭に育ったから、私は初めから自分の時間を日本の教育に委ねることを拒否した。そしたら王道のニートになりまんた!
あと、これは、内田先生、言及していないなぁと思ったことなんだが、今のいわゆる「アツい学生」「なんかデカイことやっている学生」たちは、命や平和が大事だという思いが強すぎているように感じる。例えば、「明日自分は死ぬかもしれない、だから今やりたいことをやる」「メメント・モリ」「日本は平和ボケしている。今、世界を見ておかないと自分は腐敗する」こんな言葉は学生みな、腐るほど吐いている。私もその流れに乗り、吐き散らしていましたがね!昔の学生運動が、違う形でなされているのかなとも感じた。大学のエエ事やってますサークルを通して、「自分探しの旅」が正当化される。明日生きているとは限らないから、今日、教育を受けているヒマなんか無いという、自分があたかも夭逝する前提というか、孤高の夭逝ヒーロー、ヒロインを演じているような感覚。実際尾崎豊やゲーテのウェルテルを自分に重ね合わせる学生も多く、私だけかなと思っていたらそうでは無かったので、みんな同じだな、と思った。「命は大事」の大売り出しブームなのかぉ。また、内田
先生が、「教室は不快と教育サービスの等価交換の場」と書いておられましたが、もう少し付け加えると、教室は「明日死ぬかも知れないリスクを自分は持っている前提で」「今好きなことをやるか、それとも教室で国家の人材を生産させるためのシステムに自分の時間を明け渡すか」のギャンブルに似た感覚をもっているのだと思うぽょ。私の表現の仕方が極端すぎるのかも知れんが、あながち間違っていないとも思う。
勉強しない時間、つまり社会に自分の時間を明け渡さない時間というのは、自分がこの世で生きた証を残す保険をかけている、ということなのかなと思う。何かをやっていないと自己同一性が拡散しそうな恐怖に駆られてしまうからの。うひょひょ。

それから、内田先生の「日本辺境論」に書いてあった内容で、これはまさに私の育った時期の教育環境と同じだ、と思った。
私が小学生の高学年のときに、「アメリカの教育は素敵である」という神話を教師からよく聞かされていた。だから「総合的な学習」という、よくわからない授業内容で教師もてんやわんやしながら進めていった授業がカリキュラムに挿入されたり、教科書を、まるで墨塗り教科書のように「やらなくてもいい範囲」をすっとばして行ったり、よくわからないままに小学校教育を終えた。そこで私が小さいながらに考えたことは、「日本の教育は絶対的でも無くて今まで間違っていたらしいのだから、これからは自分の世界を構築するために自分で自分の勉強する範囲は選択せねばならない」「日本は教育改革する。このままではいけなかったのだから、このコミュニティ、教育をどっぷり信頼してはならない」ということだった。完全ゴーマニズムww私の選択したスタンスは、間違っていた。今更この自我を棄てるのは怖い。
また「日本辺境論」の「機」の思想の話を加えるが、他者に自分の一部を明け渡すような「他力本願」も理解できないし、味方、仲間という概念もよくわからん。消えてしまいそうになる自分の自我を死守せねば不安になるから、もう他者の価値観(つまり教育)は他者の侵入ということだから受け付けない、ということになっていたのかな、とかね。
それから、内田先生は、子どもたちの行動を「無秩序であることをほとんど制度的に強いられている」と書いておられたが、本当かなあと思う。私の実体験の話でいくと、みな同じ制服で、それなりに秩序を持って存在しなければならない教室で、無秩序に見えているのは、やっぱりみんな自分が可愛くて、社会より自分優先だからなのかな、と。意図的に、自分のスタンスを確保して、その方法が一人ひとり違うから、全体的に無秩序になるのかなと。だから、「どのような命令にも従うなという命令に全力を尽くしている」というよりは、社会の流れに自分を溶け込ませて自分というものが消えていくことに脅威を覚えて、自分という枠組みを死守しているのかなと思う。
酒鬼薔薇聖斗が何かに「透明な人間」と書き、それを様々な文化人が評論したことがあったかと思うまさに、現代の若者(私も含め)は、自分が透明になっていくのが怖いんだと思う。昔は自分確認行動をするヒマもなかったし自分を語る必要も無かったかと思うが、今では自分をある程度語れるようにはならないと社会にバカにされてしまうので。
また、「制服の着方を微妙に崩し、無為な人間であることをメディアで学習し、より無為に見えるようにする」の部分だが、やはり大人のメディアのビジネスマーケティングのターゲットは若者であるから、それは否めないという気もするが、それは置いておき、若者は無為になりたいわけではないような気がする。自分という枠組みを死守したくてたまらないし、「一生に一度しか経験出来ないJKブームやユースカルチャーを貪欲に体現する」事に一生懸命なんだと思う。生きざまが刹那的だから長い目で見ると荒廃的なのかも知れない。

第二章 リスク社会の弱者たち
親が教育のメリットを知らない、だったら私は自分の力で、なんとしてでもこの貧乏で視野、世界観の狭すぎる社会から抜け出さなくては、富裕層やエラサマ(偉い人)は敵だから、自分で自分の生活を確保しないと、と思って、ただ受容するだけの学校生活とオサラバしたことをすごく覚えている。
そういういきさつがあったから、「将来の予測が立たず、努力が水泡に帰す可能性が高いというリスク社会の実相をリアルに見つめている人々の方がむしろ選択的に社会の下層に下降してゆく」という文章には、まさに私じゃないか、と妙に納得した。
また「日本辺境論」に言及するけど、「日暮れて道遠し」という価値観では、現代では生きている感覚が全く無い。
私たちニート(といっても私はものすごおく傲慢だから、ニートコミュニティでも廃絶されそうな人種ですが)勉強しなくても自信たっぷり、という文化は根強いと思う。

第3章 労働からの逃走
「ニートのメンタリティは幼児期における自己形成の完了ということを特徴とする」と書いてあり、なるほど!!!!!と思った。私が「素敵な価値観だな」と思う人って、まぁゲーテとか三島由紀夫とか藤村操とかいるが、私は彼らと出会って自分の自己形成を終わらせた。それがなによりも正しくて、それでいいと思っていた。この先、他の生きざまを選択するということは、今までの自分を捨てなきゃいけない。自分の中の彼らを殺さねばならない。多分、ここが、ピーターパンになり続けるか大人になるのかの分かれ道なのかも。

第4章 質疑応答
最後の最後になって、なぜ内田先生が「無限の尊敬」に言及しているのかがわからんかったなう。尊敬とは、ある意味自分の人生を選択的にその尊敬する対象に委ねて、その後はその尊敬する対象を信じて信じて信じて、その人の色になる、ということだと私は思っている。ということは、その時点で「その対象を尊敬する私」で完結してしまっていて、それこそが自己完了だと思う。それって、「みんなで今までの日本教育を手放しましょう」と言った人を尊敬してニートになっている私たち若者と同じなのではないか。ニートが社会に適応するときって、尊敬する、崇める師匠を裏切るときなのではないか。
また「日本辺境論」の「機」の思想の話になるが、「念仏して地獄に堕ちたとしても私は別に後悔しない。ほかの修行をすれば仏になれたものが、法然上人に欺かれて念仏したせいで地獄に堕ちたというなら『騙された』という言い分もあろうが、どのような行をしようと仏になれぬ身にとっては地獄も終の棲家である」との親鸞の言葉が、すごく当てはまるような気がする。親鸞は修行の「目的地」という概念を否定した。しかし、現代人は違う。20歳を過ぎれば税金を払う義務がある。労働をする義務がある。義務という目的がある。だから終の棲家というニート生活を肯定してはならない。念仏の方法を間違えて教えられて義務を負えない人間になったのなら、その念仏を教えた師匠を自分の中で殺さなきゃいけない。弟子が欺かなきゃいけない。裏切らなきゃいけない。
そういう、尊敬する人を裏切るクライシスをニートは経験しなければならないのかも知れない。





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