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フィクションこそ人間性の源

そもそも私が日本文化に興味をもったのは、

中学生のときにオーストラリアにホームステイしたことがきっかけ(これはよく日記に書いている)という面もあるが、

文化逆輸入という面もある。

イギリスの芸術家、デイヴィッド・ホックニーの作品

「Walking in the Zen Garden at the Ryoanji Temple, Kyoto. Feb. 21st 1983」に出会ったこと。

中学校の美術の教科書に載っていて、ずっと魅せられていた。

美しすぎて、めまいがしそうなものに出会った瞬間だった。


私はそれ以来日本に住んでいるのにも関わらず、

日本という何か目に見えない美しさに触れたくて仕方が無かった。


竜安寺に行きたくて行きたくて、竜安寺に行く前に自分が死んでしまうのではないかと毎日が怖かった。

そして、大学生になってやっと竜安寺に行く決心がついた。

しかし、待っていたのは失望だった。

私の愛する竜安寺はそこにはなく、ただただ観光客の喧騒と修学旅行中の中坊の騒がしい足音だった。

庭の前に座っても、心が休まるばかりか怒りが募った。

なんで強制的に行かせられている中学生に竜安寺が奪われるのだろう。

私が出会いたい竜安寺はどこへ行ってしまったのだろうか。

1年後、再び竜安寺に行った。

今度こそは竜安寺に出会いたいと。

写真を沢山撮れば、一枚くらいは竜安寺に出会えるのではないかと、相当な数の写真を撮影した。

けれど、現像して出てきた庭の写真は、やはり私の知っている竜安寺ではなかった。

なんで私は日本の良さを知るために、外国人の手が必要だったの?

なんで私の瞳には竜安寺が見えてくれないの?

何も見えなくなっていた。

何も。

こう、言ってもいい?

「竜安寺の物語が大きすぎて、そして私が芸術がわからないから何も見えなくなったんじゃなくて、

ホントはそもそも何もないんでしょ」

「昔の庭と現在の庭では角度が違うんでしょ、だったら現在の庭を見て何を思っても自由なんでしょ」

って。

すると、精神科医の名越康文さんの言葉を思い出した(先日あんなにボロクソ言ったのにねーw)。

フィクションこそ人間性の源。



そう、私があのとき見た竜安寺は、

今も私の心の中にある。

心の瞳でしか見れない。

文化って、そういうものなのかもしれない。
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