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終末観という自称エリートたちのマスターベーション

さてさてさて。

毎日少々のエキサイティングな日々を送っている?ような気になっている相沢ちゃんです。

おとといは、友人が長期インターンをしていた会社のお手伝いに行ってきました。

久しぶりにリア充学生とお話しましたww

その日のよるは6時間ぶっつづけでツイッターやってましたww

さまざまな学生と意見を言い合ったり、

自分の考えていることをツラツラ書いたり

気づいたら夜中の3時ですたノシ

そして昨日は部活の部長とカフェで4時間くらい喋り倒していました。

3日後は友人が朝カルデビューするみたいで、カナーリうらやましいんですが、

私の耳と眼球をゴッホのように切って封筒に入れて80円切手で送ったらばよ

25000円くらい(普通だったらかかる旅費)-80円=?

でちょっと暗算できないんだけどさw、

かなりコストや安くなるんだわさ!

あたしもいきたいなー


さて。

今日は、サイニィから引っ張ってきた論文に対する考察(ってかメモ)を書きたいと思います。

十津守宏「新世紀エヴェンゲリオンの終末論」

考察メモのタイトル↓

終末観という自称エリートたちのマスターベーション

・グノーシス主義の終末観は、一度終焉を迎えてなおも自我を保持したい、いやむしろ自我は当たり前に存続するものだという前提として話が進んでいく。ゆえに、自我と肉体は物質でできていることより包括されていると考える私の立場から言えば、この思想は破綻していると考えられる。

・終末観には常に期待が孕んでいるのであれば、それは死を(理由は何であれ)望む、フロイトのいう「死の本能」と関連があるのではないか。

・私は、村上春樹の作品の分析している論文は、作品は所詮作り物であり普遍的ではないという理由で拒絶するのに対し、エヴァンゲリオン分析の論文は受け入れている。エヴァンゲリオンも作り物の作品であるにもかかわらず。それはなぜだろうか。ひとつ考えられるのは、エヴァンゲリオンの作品は、古来からの文献を引用するという、人間の歴史の上に作られたものであるのに対し、村上氏の作品は、何でもかんでも混沌に還元してしまう傾向が受け付けられないのかも知れない。

・『歴史と時間の流れとそれに付随する逃れ難い過ちの連鎖を断ち切る歴史喪失、彼岸的ユートピアを拒否した結果、人は「救済」のない永遠回帰の時間の環の中で生きていくしかない』という記述があるが、ここは宮台真司のいう「終わりなき日常を生きろ」とほぼ一致していると言ってもいいのではないか。

・小田晋さんをはじめさまざまな学者が終末観を論じた時代があったみたいだが、私はその終末論ブームを知らない。終わりなき日常しか知らない。だから終末観とか言われてもイマイチピンと来ない。
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