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大澤真幸さんと痛みの記憶とconsabaさんと朝カルと私。

朝カルで出会った学生と講義の帰りにカフェで情報交換をしたのですが、なんとびっくり。
ツイッターのconsabaさんってボットじゃなくて人だったのです!!!!
びっくりものです!!!!


社会学者の大澤まさちさんの「痛みの記憶」の内容♪

http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=109876&userflg=0

「痛みって記憶されてるんじゃん?」って感じな話。
前回のフーコーは難しすぎてインプットで精一杯だったが、今回の「痛みの記憶」は、心理学にも通じる内容だったので、面白くて面白くて、アウトプットもたくさんできたので、それをメモってみました。

私の意見は、○と表記する。

・病院に行っても理由がわからない痛みは、過去の痛みが記憶されていて、フラッシュバックのように出てくる現象なのではないか。
→痛みとは何なのか。痛みと記憶の関係はどんなものなのだろうか。

・フロイトの「死の欲動」とは、苦しみに執着してしまうこと。
○痛みに向かうというのは、痛みに対する癒しや救われた感覚、痛みの体験を他者に分けることが出来た、痛みを感じる現状を納得することを求めているのではないか。

・痛みに意味づけ、物語を描けると痛みが弱まる。
○河合隼雄さんのナラティブセラピーと関係があるのではないか。

・アルコール依存症のグループカウンセリングにで、ある人は自分の依存症の話をする。そこで痛みについて語る言葉が編集されていく。ここで注目すべきは、話す側の人間は話しっ放し。聴く側の人間は聴きっ放しで、話す人を肯定もしないし否定もしないこと。
・フロイトの自由連想を使った療法では、クライアントは自分のことを話しているのを、フロイトはクライアントの後ろでただ聴くということ。
・この二つには、聴く側の人間の存在(誰かがいるという感覚)を、話す側の人間は、普段の会話とは違う感覚で捉えているということ。そして、クライアントとカウンセラー(グループカウンセリングの場合は話す側と聴く側)の間には、人ではない第三者がいるということ。その第三者とは、経験を語る物語だったり、芸術療法のためのアートだったり。

○シュルレアリスムも、自由連想を用いていた。シュルレアリスムの画家は、誰を他者としその他者をどう感じながら絵を描いていたのだろうか。絵を見る人を感じていたら、自分の無意識層の絵は描けないだろうから、誰かがいるという感覚は、持っていなかったかあるいはメタ認知の自分と自分の自我との対話をしていてその第三者が絵画だったのか、よくわからん。

・専門家から自分の病気の知識をもらうことでその病の痛みを解決できる場合もある。
○呪術とも関係がありそう。あとは、社会病理の痛みの物語を語る学者の言葉に飛びついて救いを見出したい腐女子のエピソードも関係がありそう。

・専門家との関係性や信頼によってクライアントが主体的にその知識にコミットする姿勢が生まれる。

○人間のアイデンティティーは言葉というラベルではなくてノンバーバルな関係性だと仮定したら、人間のアイデンティティーは他者ありきを前提として、流動性の高いものであるかもしれない。確固たるイデアのようなアイデンティティーはそもそも存在しないのかもしれない。

・旧約聖書にヨブ記というものがある。そのお話で最後に不幸なヨブは、神と対峙する。そこでは二人の会話は成立していない。「神が何を喋っているのかがわからない」ってことだけがわかる。しかしそこで、その会話は物語にはならないが、ヨブはその会話にコミットする。コミットすることでヨブは癒される。

○この物語は、さっきの話と重なるかもしれないが、メンヘラが有名な精神科医や文化人の本をできるだけ揃えて、本の内容は何が書いてあるのかわからないくらい難しいけれど、本の言葉を所有することで救われようとしている図にも似ている気がする。

ヨブ







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