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フーコーと権力と承認と私。

なんか。
レポート書いたのですが、提出する場所が無いのでここにあっぷしまんた☆


権力と承認

 私は昔から、学校の勉強が嫌いだった。国家権力に自分の大切な時間を委ねたく無いと思って、死守していた。いわゆるアングラ、サブカルで生きてきた。そんな私が最近権力について考え直してみようと思い、このレポートを書くことにした。

 具体的には、既存の権力に対して研究をしてきた哲学者、フーコーの考えてきたことを通して、自尊心と承認という言葉の観点から、私の権力に対する姿勢を改めて見つめ直すことを目的とする。


目次

1、『狂気の逆説』と社会権力

2、『監視と処罰―監獄の誕生』と真理の保証

3、性の権力と教育の権力

4、実存の美学

5、承認されるための権力機関

6、あとがき


1、『狂気の逆説』と社会権力

まずはじめに、『フーコー入門』(中山元著、ちくま新書、1996年)
の、フーコーの著書である『狂気と逆説』についての説明がなされている部分の要所を取り上げながら、私が小さいころに見えていた社会とを比較してみたいと思う。

狂気は、近代以降の西洋社会において、精神の病と考えられるようになった。そう考えることには、メリットがあった。そのメリットを、同書から抜粋してみた。

「宗教改革によって労働に対する考え方が変化してきた・・・宗教改革によって、労働は厭うべきものではなく、自分が救済されることを確認するためのひとつの手段となった。・・・
17世紀以降の監禁施設では、監禁するだけでなく、労働させることが自己目的となった。」(043頁)

要するに、自ら労働しない者を救済させるために、強制的に働かせるための施設が監禁施設であった。かつ、自ら労働しない者を、精神の病という枠組みに当てはめ、制度化しようとした。

しかし、市民社会の発展に伴って、自由主義的な新しい経済学が誕生する。その経済学では、人口はそれ自体で富の構成要素となる。全人口を生産の循環の中に位置づけるために、社会は監禁から解放へ向かった。

その後の監禁された者、つまり施設の患者がどうなったのかを、『フーコー入門』は、フランスで狂人を監禁施設から開放したピネルの話に基づいてこう記している。

「患者が取り戻したのは、理性そのものではなく、「すっかり組み立てられた社会的なさまざまな類型」である・・・「ピネルにとって狂人の治療とは、道徳的に認められ、承認された社会的な型の中に、狂人を安定させること」である。身体の鎖を解かれた患者は、・・・他者の道徳を自己の道徳として確立し、社会的で道徳的な主体として自己を確立することで、〈治癒〉するのである。」
(050~051頁)

このフーコーが考えてきたことは、私が高校生のときに感じていた教育機関の制度に対する疑問と、重なっていることに気付いた。

私は高校1年生の4
月から、学校の勉強についていけなくなった。ああ、これで私は、これから出て行くはずの社会に承認されない人間の枠組みに入れられるのだな、と感じた。自分の自尊心を保つための方法が見つからなかった。と同時に、私の周りのクラスメートが、何のためかわからないけれどそれでも勉強するというその姿勢が、私には理解できなかった。何のためかわからないもの、本当に正しいものなのかもわからないものに時間とエネルギーを費やせるクラスメートが理解できなかった。きっとそれは、何か社会権力のようなみえないものが作用しているのかな、と当時はなんとなく思っていた。


2、『監視と処罰―監獄の誕生』と真理の保証

この章では、『フーコー入門』の内容の中で、フーコーの著書である『監視と処罰―監獄の誕生』についての説明がなされている部分を抜粋しながら、私が高校生の時に感じていた、何か社会権力のようなみえないものが何だったのかを見ていくことにする。

私の、当時そのなんとなく思っていたことを、フーコーは言語化していた。その言語化したものを、『フーコー入門』の言葉を通して紹介する。

「十八世紀後半になると、・・・徴募された兵士たちは、命令に従って展開するために適切な身体に改造されるのである。・・・身体を対象とする細かな規則が定められ、近代社会に適合した人間を作り上げるための微細な技術が開発された。・・・身体の調教は、精神の調教にいたらなければ効果を発揮しない。・・・社会にとって重要なのは、社会の意図に沿って自発的に行動してくれる人間である。」
(141~143頁)

そして、近代の社会では、社会構築を達成するための手段として、「試験」があげられるとフーコーは言う。その詳細も、同書から抜粋してみる。

「個人を、社会の期待するような主体として構築するためには、身体と知の両面での相互的な働きかけが必要となる。・・・これは、近代の特権的な〈真理の保証〉である。試験を受ける個人は、試験によって資格を付与され、等級を定められ、資格の否定という強制手段によって、処罰される。・・・試験と評価に合格したものは、〈真理に〉近づくと感じるようになるのであり、他の人々に対して自分の〈真理〉への近さを誇」れるのである。

(143~144頁)

これは、私が高校生の時に感じていた事と重なる部分が多かった。〈真理の保証〉が添付される学生においては、自尊心と社会的承認が得られる社会構造になっているのではないか。それでは、それが添付されない私のような人々は、どこで自尊心を高めればよいのだろうか。

更にフーコーは、近代社会に沿った、つまり生産性を改善することを目的とした装置として、パノプティコンの存在を挙げた。

パノプティコンの説明を、同書から抜粋する。「円環状に配置した建物の中心に監視塔を建て、この監視塔から周囲の建物のすべての部屋が監視できるようにした装置である。重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がないことである。監視される可能性があることで、監視されるものの心の内側に、第二の監視者が生まれる。これは「権力を自動的なものとし、没個人化する」装置である。」
(144~145頁)

要するに、権力から強制的に、圧力として真理を植えつけられるのではなく、いつの間にか人々の心に、権力に従う理性を働かせるように仕向ける装置がパノプティコンということである。

話の論点からずれてしまうかもしれないが、パノプティコンは、社会というよりは、家庭環境に当てはまるのではないかと思う。その権力が、将来生きていく上で重要になってくるか否かを教えることのできる親の元では、実に有効に利用できる装置かも知れない。しかしそうでない親のもとでは、とりあえず勉強しなさいというしつけと、親がその権力から遠のいた人生を歩んできたと言う、行動と言論の乖離、ダブルバインドにより、うまくパノプティコンが作用しないこともあるのではないかと思う。


3、性の権力と教育の権力

この章では、各々の社会にどんな装置が備わっているのかは定かではないが、フーコーは性の権力によって、私は教育の権力によって、社会的承認を得にくい、と感じてきた、という事実を掘り下げて考えてみた。すると、双方に共通点を見出すことが出来た。

まず、フーコーが性の権力に対して、生きづらさを感じていたという話を、同書から抜粋する。

「ホモシェクシュアルという自己の性的な欲望と、それを忌まわしく思う意識の葛藤に悩まされていた」(018頁)

フーコーは、既存の、ホモセクシュアルに対して否定的な社会の権力に疑問を抱いていた。

当時、自己の欲望に疑問を抱いていた人々、つまり性倒錯者と当時呼ばれてた人々が、そのことを医療機関に自ら語るような仕組みが出来上がっていた。そのことに関して、同書はこう記している。「これは近代の社会において、性において自己の真理とアイデンティティを見出さざるを得ないような〈からくり〉ができあがっていることを示」している。
(163頁)

社会が規定した性の真理に当てはまる人間には、自尊心の添付されたアイデンティティが保証されるように出来ていたのだろう。

このような社会ができた理由を、同書はこう説明している。「性の問題は優良な種の保存という観点から特に重視されていた。倒錯した性を排除するのは、・・・純粋な血と種族を守るという要請に従うためでもある。・・・性倒錯の医学と優生学のプログラムは、性のテクノロジーの内部で、十九世紀後半の二つの革新だったのである。」
(165頁)「性の装置が真理と権力の新しい配分の仕組みとして確立された。」(166頁)

当時のヨーロッパでは、「医学と優生学」という科学によって裏打ちされた「性の装置」は、優良な種を残してくれるだろう人の自尊心を高めることによって、優良な種を保存できるシステムを構築していったのだろう。

先ほど挙げた試験のシステムも、この理論に当てはめる事が出来るだろう。


4、実存の美学

そのような社会でフーコーは、自分なりの自尊心を得られる生き方を編み出した。それが、実存の美学である。実存の美学について、同書を抜粋する。

「実存の美学とは、「人が自ら行動の規則を定めるだけでなく、みずからを変え、固有のあり方において自己を変貌させ、自己の性を美的な価値をもつととに、生き方のスタイルについての特定の基準に適った一つの作品に作り上げようとつとめる」ことである。」
(199~200頁)

フーコーは、ゲイの理論により、それを実践していった。「〈ゲイ〉であることによって、新しい他者との関係を構築しようとすること、それは自己との関係、他者との関係を構築しようとすること、それは自己との関係、他者との関係を問い直すこと、すなわち新しい〈エチカ〉を模索することである。」
(201頁)


5、承認されるための権力機関

先ほども記したように、私は高校の始めに勉強についていけなくなった。そのうちに、日本の教育システムが、社会にとって優良な人材を育成するためのものだということに気付いた。そして、そのシステムが、自分の自我を剥奪されたり操作されたりしてしまうのではないかと恐怖を覚えた。更に、そのシステムが教えることが本当に正しいものであるか、懐疑的だった。

故に私は、模擬試験の解答用紙に、詩を書いているような子だった。私はフーコーの存在を知らずとも、実存の美学という生き方を実践していた。言葉というアートで自尊心を保っているような子供であった。当時はそれでよかったのだ。

しかし、大学生になって、二つの大きな発見をしてしまった。一つは、社会人になったら、資本主義社会の中で生きていかなければならないということ。

もう一つは、大嫌いだったはずの、権力とか、社会に関わっている人々に承認されたいと、かつては姑息だと思っていたそんな人間になってしまった自分に気付いてしまったこと。

私はが高校生のときにずっと追い求めていた、山田かまちや藤村操は、成人を向かえる前に自分で命を絶ってしまった。私の今までの哲学ではいずれ限界が来てしまうのではないか。自分なりの実存の美学の生き方では、資本主義社会では社会的価値、経済的価値を生み出せないのではないか。

高校生のとき、自分は社会の枠組みから抜け落ちた。社会の中で生きていけなくていいと思っていた。けれど、今は、社会の中で生きていくほうが、もしかしたら面白いんじゃないかと思うようになった。

フーコーは、「種の装置」という権力に対して批判的でありながらも、教授というポジションにいる点においては教育とい権力には承認されており、また、著書出版という形で社会的承認を得ている。

フーコーが当時の社会の中で、実存の美学で自尊心が確立され、承認欲求が満たされたのならばそれでいい。しかしそれは単に「ある権力に屈しない自分を、別の権力機関で示した」ということで、フーコーが私たちに示した姿勢は、やっぱり権力でしか自尊心を確立することができないということなのではなかろうか。
 この結果は、現代社会に生きる私は資本主義社会の中で、一度「教育機関」という権力の枠組みから外されたものとして、自尊心を確立する方法、かつ社会に承認される方法を、ゼロから考え直さなければななくなったことを示唆する。












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