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日本庭園と、まぁフツーにレポートのコピペ

<日本庭園と庭師の素敵な人生>
 私は自称歴女である。そんじょそこらの歴女じゃない。筋金入りである。専門は遊廓。独学では飽き足らず、専門家に会いに行ったり、夏休みに1ヶ月京都に住んだり、祇園でアルバイトをするくらいには歴女色が濃い。周囲からは笑われるが、本人は至極マジメに遊廓歴女に勤しんでいる。
 きっかけは岩崎峰子という芸妓の本を読んだ事だ。私は昔から自分が女であることが大嫌いであった。かといって上野千鶴子を始めとするフェミニズムの本を読む勇気も無い。だから、女として強かに、そして美しく生きる芸妓の姿が私にとって自分が女性であることを肯定する唯一の切り札のように見えた。
 さて、そんな遊廓歴女な私だが、まずは私の好きな日本庭園の話から始めよう。私は1ヶ月に渡り京都の「いわゆる」観光地を巡りに巡った。四六時中京都型観光ビジネスの消費者であった。その中で、一番好きな日本庭園を挙げよと言われたら、天龍寺の庭園を挙げるだろう。
 天龍寺の正式名は霊亀山天竜資聖禅寺と言い、臨済宗の天龍寺派の大本山。本尊は釈迦如来である。開基は足利尊氏で、開山は夢想疎石である。天龍寺は、尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、1341年に建立された。
 天龍寺の庭園は夢想疎石が造園した。その庭園は現在国の史跡及び特別名称となっている。庭園名は曹源池庭園と言い、中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、嵐山や亀山を取り組んだ借景式庭園でもある。私が天龍寺に言ったときは本当に天気がよくて、方丈からぐるりと見渡した庭園が一層美しい姿をしていたので、帰りたくない!と思ってしまったほどだ。
ここで夢想疎石について少し触れておこう。彼は伊勢国(三重県)出身の庭師で、全国各地に日本庭園を作った。美濃国(岐阜県)にも虎渓山永保寺を開き、そこの庭園も手掛けた。私は今年のGWに行ったが、残念ながら工事中だった。。。

 私がもう一つおすすめしたい日本庭園がある。それは東福寺の庭園だ。東福寺は、臨済宗東福寺派の大本山で、本尊は釈迦如来である。九条道家が九条家の菩提寺の創建を願って、1239年に建立された。
 庭園の見所は、やはりこちらも方丈を中心とした庭園である。これは建物を中心に東西南北の四庭からなり、釈迦成道の八相に因んで「八相の庭」と称する。重森三玲が造園した。私は個人的に北庭の市松模様と、東庭の北斗七星が好き。というか庭園にさまざまな工夫を凝らす重森三玲の発想がたまらなく心地よい。しかも、重森三玲の「三玲」の名は、フランスの画家フランソワ・ミレーにちなみ本人が改名したものだと伝えられているらしい。この時代、西欧の印象派の画家はこぞって日本の浮世絵に夢中になったそうだが、「もうお前らいつからお互い片思いごっこやってるんだよ」とツッコみたくなる。

<長良川界隈散策>
 この項はラジオの語り手風に記述するので、口調が変わります。
私が通っている大学から自転車で鵜飼大橋を渡り、キレイな景色を横目で見ながら川沿いを走ると、国際競技場があるんですね。そうです、安藤忠雄さんが設計した建築物です。でも今回のレポートは明治時代以前に話題の的を絞るので国際競技場の話はしません。そのあとまた大きな川を渡ると、長良川の古い町並みで有名な川原町が見えてきます。とてもキレイに整っております。まれに着物姿の美人女将さんがお客様の道案内をしているのを見かけます。そこからまた自転車で進むと、岐阜公園と岐阜城が見えてきます。岐阜公園にある庭園がとてもキレイです。岐阜公園内には、板垣退助が自由党党首として遊説中に暴漢に襲われた岐阜事件の史跡として、板垣退助の銅像があります。私が長良川界隈を歩いていた時期は鵜飼の時期だったので、長良川に鵜飼用の船と観光用の船がたくさんありました。
長良川には、18年ぶりに舞妓さんが誕生したとのことで、私は早速舞妓の舞を見に行ってきました。とってもキレイな着物を着て舞っていました。祇園の舞妓さんの帯はだらり帯ですが、長良川の舞妓さんは鵜飼の船で舞うことが多いため、帯は結んでいるとのことです。さて、ここで注目すべきは舞の詞。なんと、初代法務大臣だった山田顕義が書いたそうです。少しだけ岐阜が好きになりました。

<花街と遊廓>
 嶋原。京都市下京区に位置する花街(かがい)の一つ。正式名は西新屋敷。はじめは二条柳町に開かれたが、のちに六条三筋町に移り、1640年現在の地に移った。1589年、官許の最初の廓として賑わった。現在、旧揚屋の角屋、旧置屋の輪違屋が残る。ちなみに私は角屋の特別展には行ったが、輪違屋は外観を写真に残したのみである。嶋原内の大門と柳が往時を伝える。大門の隣には桶が並べられてあったが、女としてさまざまな感情が彷彿と浮かんだ。
 幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新撰組らが出入りしていたそうだ。ここは私よりも幕末担当歴女に語らせたほうが早かろう。
 太夫はもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」などと呼ばれたものが、1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである。
 今後、太夫や遊女、白拍子や傀儡がどんな衣装をまとっていたのか、その衣装はどんな色彩で彩られていたのかを調べていきたい。
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ルネサンスとマキャベリ的知性仮説

<1、マキャベリ的知性仮説>
 さて、本題に戻ろう。私は音楽検定と美術検定をそれぞれ3級ずつ持っており、またラファエロを愛してやまない女なので、ルネサンスを調べるというのはとても今更感があり、また書くと止まらなくなるので、逆にどこから手を付けるとよいのか分からない状態である。
 そこで、心理学を介してルネサンスを分析してみようと考えた。まずルネサンス(直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指すという事を確認しておく。
 ルネサンスの時期には、ニコロ・マキャベリという政治思想家がいた。彼は『君主論』を唱えた。簡単に言うと、「目的のためには手段を選ばない」である。現在ではあまりいい意味で使われる事は無いが、私はこの考え方を結構気に入っている。
 進化心理学の用語にマキャベリの考え方を発展させた「マキャベリ的知性仮説」というものがある。簡単に言うと人間の持つ高度な知的能力は、複雑な社会的環境への適応として進化した、という仮説。「マキャベリ的」という言葉は、15世紀イタリアの政治思想家ニコロ・マキャベリに由来し、マキャベリの著書『君主論』に出てくるような意味での、社会的・権謀術数的な駆け引きの能力が、個体の適応度に大きな影響を与えたのではないか、とするそうだ。
 私はこの考え方のどこに魅せられているか。それは、この考え方を日常生活に応用すると生活しやすくなる、という点においてである。自分が自分らしく生きていくためにどのように上層部を説得できるか。どのような言葉や思考や知識が説得の武器となるか。その考え方はマキャベリズムから得た考え方で、私は彼の考え方を「自分が生きたいように生きるにはそれなりの手段を考える必要がある」という考え方に発展させていった。ゆえに彼の考え方は好きである。彼を支持する者はマイノリティではあるが。
 
<2、絵画のイノコロジー分析>
 イノコロジーという言葉がある。既知のデータから出発し、その作品を成立させているもろもろの因子、つまり歴史的・社会的・文化史的因子を総合的に再構成し、その作品のもつ本質的な意味を探索することだそうだ(若桑,1995)。
 ルネサンス期にはミケランジェロという画家がいた。彼の描いたシスティーナ礼拝堂の天井画を見てみようと思う。
 システィーナ礼拝堂は1477年に法皇シクストゥス四世によって建てられた。ここの天井にミケランジェロは、1508年から1512年にかけてフレスコ画を描いたそうだ。
 芸術とは、創造するにせよ、享受するにせよ、極めて思想的なことである。
 この天井画には、「天地創造」「アダムとエヴァ」「ノアの箱舟」という、一連のキリスト教の物語が描かれている。
 ミケランジェロがまだ10代のときに、フィレンツェでサヴォナローラという僧侶が熱烈な教会改革の運動を起こした。彼は物質的な快楽や豪奢をむさぼっている当時の教皇アレクサンデル6世とローマ教会を激しく攻撃し、その堕落し、その堕落への神の刑罰として、イタリアの滅亡を予言した。これに備えるには、新しい教会をつくるほかない、と叫んだ。
 これと似たことをやがてルターが言い、世界をゆるがす宗教改革が起こるのは、ほんの20年ほど後のことだそうだが、ルターの場合、産業革命や就業革命のようなものも背後にあったと聞いたことがあるが、紙面が足りないのでその話は割愛する。
 サヴォナローラはルターとは違い、1498年に、アレクサンデル6世によって火あぶりになってしまった。
 紙面が足りないので至極単純に書いてしまうと、ミケランジェロはシスティーナの天井画で、サヴォナローラは正しかった、との暗号を残したのかも知れない、という見方も出来る。

引用文献
若桑みどり 1996 筑摩書房 イメージを読む
同上    1995 日本放送出版協会 絵画を読む

可視化されない芸術

<可視化されない芸術>
 私は長い間、自宅アパートにある本棚に芸術哲学関連の本をインテリアのように置いているが、既に一年も経過し、ホコリを被っている状態で、未だに読めずにいる。
 よって、芸術哲学に関してはとても関心があるが、さらっと書くに留めておくことにする。
1910年代半ばの芸術思想・芸術運動に、ダダイズムというものが起こった。それは、第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底にもっており、規制の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とした。ダダイストの一人にマルセル・デュシャンがいた。デュシャンはフランス出身で、のちアメリカで活躍した芸術家である。
彼の作品に「泉」というものがある。それは、見るからに便器の形をしている。私がその作品の写真を初めて観た時、「フッ」と鼻で笑ってしまった。これが芸術と呼ぶならば、面白い形でシニシズムやアイロニー、嘲笑を表現したな、と思った。
話は反れるが、その「泉」は、最近では「噴水」と和訳すべきではなかったか、という意見も出ているそうだ。なぜならば、噴水の意味が作品に可視されない男性性器であるならば、今、目の前に置いてある作品(便器)は噴水を享受するもののメタファだと考えると、女性性器の象徴だと考えることも可能だからだそうである。
もしそれを「噴水」と呼ぶならば、そもそも物体に作品名をつけずに、作品を見ている人の立っている位置がちょうど作品名として完成していると考えられるので、「噴水」というのは、その便器を見ている人間を指しているんですよーという暗号が隠されているのかもしれない。可視させない芸術。もし私のこの仮説が妥当だとすると、デュシャンは大きく芸術解釈のパラダイムを拡大させたのではないかと考えられる。
 2006年の「ダダ展」で、一人の男性が「泉」をハンマーで叩き、それを「芸術的パフォーマー」と弁明した事件があった。これについて、脳科学的に言うと、暴力を司る部位と性的欲求を司る部位は非常に近いと言われているので、そのような行動を犯しても不思議は無いとも考えられる。
 また、デュシャンの作品を破壊する行為は、性的欲求を暴力で満たすというメタファを具現化した、「行為」という芸術、と捉える事も可能である。もう少しわかりやすく書くと、女性性器を破壊したくなる衝動。もしそれを芸術と呼ぶならば、男という生き物はなんて愚かなんだ、と思う。

<理論武装によるプレゼンテーションはいかに通ったか>
 2010年、日本の現代美術家である村上隆の作品展がフランスのヴェルサイユ宮殿で開催された。
 当時、「ルイ14世の絶対王政を象徴するヴェルサイユ宮殿で、こうした展覧会を開催するのは違法」だとして、フランスの君主制主義者たちは反対していた。事実、展示された作品には性的なメタファを彷彿とさせるものが多かった。
 当時のヴェルサイユ宮殿美術館の館長であったジャン・ジャック・アヤゴン氏は、論争と検閲の区別はきちんとつけるべきだと強調した。「ある映画が嫌いだからといって、その上映画を禁じたとすればそれは社会的な検閲だ。現場で作品を見ずになされている批判は、偏見によるものだ」と語った。
 私は個人的に村上氏のビジネスモデルの消費者になろうとも思わない。けれど、村上氏の著書は読んでいて面白いと思ったし、私の考え方や独特な孤独感、そして自国に対するナショナリズムとの対峙の方法など、共通する部分が多かった。
 私の疑問は、論争と検閲と言っても、そんな単純じゃない問題だったろうに、村上氏の企画のプレゼンが通ってしまったことだ。どんな芸術哲学の理論武装をしたのだろうか。

<素敵なミュージアム企画>
 これまた賛否両論の多い芸術家に、アンディ・ウォーホルがいる。批判される理由の一つに、「ただのゼニ稼ぎ」に芸術を利用しているだけなのではないか、という意見がある。しかし、彼は心理学や社会学を学んでいたということで、彼なりの訴えを芸術に練り込んだとは考えられそうである。
 しかしやはり、ウォーホルのやり方をよく思わない人は少なくない。そのことを踏まえて私はこう思う。雇用産出やケインズ政策のために美術館というハコを大量に作って薄っぺらい「芸術大国」を名乗るくらいなら、「作品におけるプレゼンテーションの歴史ミュージアム」とか作れば、国民の芸術哲学の民度も上がるのではないか。

<芸術と著作権>
 最近、批評家の東浩紀に取り上げられて、これまた物議を醸し出した現代アート集団に、カオスラウンジがある。カオスラウンジは、以前ピクシブという画像投稿型SNSで拾った絵をコラージュしてインスタレーションした作品を商業化し、それが著作権侵害だとして問題となった。
 匿名をビジネスに持ち込む構造そのものを芸術と呼ぶならば、それは資本主義国家みたいな顔した社会主義国家の日本を嘲笑した芸術ではないかと私は考えた。
 しかし、倫理性や良心あたりで訴えられて法廷で論破せざるを得なくなった場合、己の芸術性を理論体系化できるだけの法哲学的思考は必須だったのではないか。
 あるいはそうではなく、カオスラウンジがなんでもかんでも「これは芸術なんだ」と、とりあえず言っておけば全て許されると思っていたならば、それは愚かだとみなされるのも当然だと思う。
 でも、芸術哲学は法廷で論破する手段として用いるような扱いではなく、できれば目的として扱える生活を送りたい。

われアルカディアにもあり

<われアルカディアにもあり>
 1517年、ドイツの修道士・神学教授のルターにより、宗教改革が行われた。その後1618年、神聖ローマ帝国の宗教的内紛から、ドイツを戦場とする三十年戦争が起こった。
 その様な過酷な経験の中で、17世紀には人生は儚い一過性のものだとする強い感情が形成されていった。全ての活動の無益さを強く感じた人々は、これに対して、永遠について考えるよりもこの時この場所を有効に使うべきだとして快楽を許容する感情へと傾いていった。そんな中でバロック文化は生まれた。
 ここでバロックの概要を紹介する。バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。調和・均整を目指すルネサンス様式に対してバロックは劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもと」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもと」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタス」、その中で常に死を思う「メメント・モリ」、そうであるからこそ現在を生きようとする「カルペ・ディエム」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。
バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ている。
18世紀後半には新古典主義へと移行した。
 ここで一つ作品を紹介したい。ニコラ・プッサンが描いた『われアルカディアにもあり』だ。彼は同じ題の作品を、1629年と1639年に、二つ描いている。どちらの絵にも、数人の男女と墓が描かれている。
当時の西欧は、ペストや度重なる国家間戦争、そして封建制や王権などの制度変革により、生よりも死に光が当たる時代であった。よって当時の画家たちは、改めて死の深刻な警告を告げる図像を生み出していた。
アルカディアの墓というイメージには、失われた過去の黄金時代への哀調に満ちた郷愁が結びついているそうだ。
よって、『われアルカディアにもあり』には、「今は墓に入っているわたしも、生前は幸福であった」というメタファが込められていると若桑(1993)は述べている。
私の好きな詩人に山田かまちがいる。彼は17歳という若さで夭逝した。彼の詩は苦しみに満ちていた。しかし、きっと生前は幸福であった時間も少しはあったのかな、と思うと、彼もこの世に生まれついて、よかったんだな、と思ったり。私は彼の死と、残り香と、きっと幸せだった時間もあったのだろうという希望を忘れずに、生きていきたい。

<ロココ>
 16世紀になると、西欧の貴族や聖職者などの封建領主は没落していき、国王が権力の頂点に立つ絶対王政が形成されていった。その典型と言えるのが、フランスだった。この時代のフランスで培われた文化にロココがある。優美さ、繊細さが特徴である。ちなみに、ロココ音楽で有名なモーツァルトの曲は、重力が無く軽々しい印象を持つので私は個人的に好きではない。

<アモールとプシュケー>
18世紀前半に、ポンペイという遺跡が発掘された。それにより、当時の西洋人の古代への関心を高めることとなった。これが新古典主義の背景となっていると言われている。
新古典主義はギリシア・ローマの古典様式を模範とし、形式的な美、写実性を重視した。
新古典主義の彫刻家に、イタリアのアントニオ・カノーヴァがいる。彼の作品である『アモールとプシュケー』について紹介したいと思う。
この3カ月で何度も書くが、心理学の語源であるプシュケーが題材となる作品は私の大好物である。その中でも断トツで大好物なのが、このカノーヴァの作品である。
アモールとプシュケーの神話に関しては長いので割愛するが、ここで私が疑問なのは、アモールとの接吻によりプシュケーの目が覚めたのに、なぜプシュケーだけ学問として成立してしまったのか、ということだ。プシュケーだけ学問になってしまったら、なんだか寂しさのようなものが残る。アモールは依然愛のままである。いや、逆に言うと、愛ゆえに学問たりうる必要も無かったのかもしれない。

<バロック音楽>
 最後にバロック音楽について少し触れたいと思う。クラシック音楽と分類される曲で、個人的にナンバー10以内に入りそうなくらいお気に入りの曲がバロック時代に作られている。その曲名は「オンブラ・マイ・フ」である。
 この曲はヘンデル作曲で、「セルセ」というオペラの挿入歌である。セルセは、古代ペルシャを舞台にしたもので、浮気なペルシャ王セルセが、すったもんだの末に許婚と結ばれるまでを描いたオペラである。
 ヘンデルは、バッハと同じ年に同じ国(ドイツ)で生まれた。しかし、ドイツに残ったバッハとは違い、ヘンデルは自由に各国へ飛んだのである。
 バロック音楽が他の時代と区別されるのは、「通奏低音」の有無である。これは、合奏の際、鍵盤楽器奏者が左手で指定された低音部の旋律を弾きながら、即興的に右手で旋律や和音を重ねる方法である。正確な情報ではなくあくまでも私の個人的な感想でしかないが、パッヘルベル(バロック時代の作曲家)の「カノン」は、低音が心地よく響き、その上に一定のメロディをアレンジしていくさまを聴くと、なるほど通奏低音とはこういうものかもしれないと思うこともある。
 バロックの時代には音階の音の間隔は一定ではなかった。そこでバッハは、自らの手で鍵盤楽器を平均律に調律し、音階のすべての音の間隔が同等であれば、すべての旋律と和音を平行移動できるようにしたそうだ。この情報は、ピタゴラス音階と何か関係があるのかもしれない。

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