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ヘラクレイトスはモテまくっていたのではないかという仮説

ゴールデンウィークは、卒論を進める(あまりにも進んでいないので卒論のセンセに叱られましたwwww)予定の

相沢祐香です。

でも明日は滋賀で歴女を満喫しますww

さて、今回はギリシャについてのお話です。

 1、厭世観に満ち、斜に構えた表情がとてもいとしいヘラクレイトス
 ギリシャ哲学を洗い直していると、私の好みのタイプの哲学者が存在していたことを知った。彼の名はヘラクレイトス(B.C.540年頃-B.C.480年頃)。彼の著作は難解であり、また厭世観漂うことで知られ、「泣く哲学者」または「闇の人」と呼ばれたそうだ。ここから、筆者にとって恋愛対象ストライクゾーンの人物であっただろうことが安易に予測出来る。
また彼は、「私は自分自身を探求した」という言葉を残したそうだ。その自分自身とは「魂」のことであり、それは思考や意識活動といった人間の知的活動の源であったそうだ。ここで認知科学(cognitive science)とは何かを思い出してみる。その意味は、情報処理の観点から知的システムと知能の性質を理解しようとうする研究分野である。独断と偏見でしかないが、似ていると思わないか…!!
 そして、宇宙(マクロ・コスモス)と私の魂(ミクロ・コスモス)が同じロゴスを有する事を見ることができるとも彼は言った。心理学では、「心は社会環境の反映、または結果」という考え方がある。心理学者の研究対象としているヒトの心に普遍的元型の何かが存在するか否かは別として、外部(宇宙、社会)と内部(自分)は合わせ鏡のようであるという考え方は、似ている部分はあるかも知れない。
 ちなみに元型というのは、分析心理学者であるカール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在とされている。

2、全能感という繭の中で、不完全な現実の絶望感を回避する、離人症疑いのプラトン
 病跡学という学問がある。それは精神医学の一分野で、歴史的に著名な人物の精神医学的研究を行う学問である。私は独学でその学問に首を突っ込んでいる程度でしかないが、明らかにこの哲学者は精神疾患があったのではないかと予測される人物がいる。その名はプラトンである。
 プラトンの哲学を簡単に説明するとこうだ。理性によって思い描く、ものごとの完全な姿があり、それをイデアと呼んだ。また、世界は感覚がとらえる、たえず変化し、やがて消滅していく不完全な現象界と、それらの現象の原型となる完全で永遠のイデア界という二つの世界から成り立っている(2011,小寺)。要するに、この世に普遍的元型があると仮定している立場を取っている、ということだ。ここから、彼は精神疾患の一つである離人症だったのではないか、という仮説が浮かぶ。
 医学書院出版のDSM-IV-TR(2002,高橋、大野、染矢)(アメリカ精神医学会の定めた、精神科医が患者の精神医学的問題を診断する際の指針を示したもの)によれば、離人症性障害の基本的特徴として、自己から遊離している、または遠ざかっているという感覚によって特徴づけられる持続的または反復的なエピソードが挙げられるそうだ。関連する記述的特徴と精神疾患として、現実感消失が存在して、外の世界が奇妙で非現実的な感じに経験されることもある。その人が、ものの大きさや輪郭が不気味に変形しているように知覚することがある(大視症または小視症)のだそうだ。
 「理性によって思い描く、ものごとの完全な姿があり」というのはつまり非理性では不完全な姿を感じている、ということで、これはDSM-IV-TRの「現実感消失が存在して、外の世界が奇妙で非現実的な感じに経験される」に相当されるのではないか、と私は考えた。また、「たえず変化し、やがて消滅していく不完全な現象界」というのは、DSM-IV-TRの「その人が、ものの大きさや輪郭が不気味に変形しているように知覚する」に相当するのではないか、とも考えた。
 またプラトンは、エロスについても説いた。彼いわく、エロスとはイデアに憧れ、永遠のイデアを求めようとする欲求のことを言うのだそうだ(小寺,2011)。ここで私は、詩人の山田かまち(1960-1977)のことを思い出した。かまちも、非常に美しさにこだわった。かまちも、きっと理想の美しさに憧れ、現実のそこそこの美しさに折り合いをつけられなかったのではないかと私は考える。

3、『アテネの学堂』で繰り広げられる世界天才会議
 『アテネの学堂』はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティの絵画である。ちなみに筆者の誕生日はラファエロの誕生日と命日が同じだ。
 この絵に描かれている人々は有名な古代ギリシャの哲学者たちである。この絵で注目したいのは、中央に立っている二人と、中央の階段左付近で考え事をしている人物だ。指を天に向けている人物がプラトンで、手のひらで地を示しているのがアリストテレス、そして中央の階段左付近で考え事をしている人物はヘラクレイトスだ。これは、プラトンの観念論的なイデア論の哲学に対し、アリストテレスの哲学の現実的なさまを象徴していると言われている。ここから、「アテネの学堂」では、プラトンは自然法、アリストテレスは実定法をそれぞれ表し、よってコスモスを掌握するメタファーが隠喩されているのではないか、そしてその議論で完結してしまわないように、常に「どれも間違っている」と、完璧だと見なされた秩序に対する反証の機会を待つヘラクレイトスが存在しているのではないか、と私は考えている。

4、心理学の出発点はギリシャ ~ヘラクレイトスの吐息は私のもの~
 心理学、Psychologyの語源はギリシャ語のプシュケー、Ψυχήである。このΨυχήのΨは、心理学、超能力をあらわす包括的な記号として用いられている。
 本来、プシュケーとは息、呼吸を意味しており、転じて生きること(いのち、生命)また心や魂を意味する言葉であった。
 よって私は、ギリシャから出発した心を追究する学問を選択する形で、ヘラクレイトスの哲学を間接的に享受しているこの感覚を楽しみたいと思う。

5、安藤忠雄とバビロンの交差点
 vfbg古代ギリシャよりももう少し時代を遡り、新バビロニアの話をしたいと思う。
 新バビロニアはB.C.7世紀後半、現在の地中海地域に存在した。最盛期を築いたのはネブカドネザル2世。その当時の繁栄は「バビロンの栄華」と呼ばれ、首都バビロンには壮大な宮殿、世界の七不思議に数えられた空中庭園や聖塔(ジッグラド)が建てられた。その空中庭園は、空中といっても空に浮かんでいるわけではなく、建物の屋上などに水を引いて作られた壮麗な庭園だったそうだ(小松田,2005)。
 私はその空中庭園を想像したら、安藤忠雄が設計した長良川国際会議場にある庭園を思い出した。
その国際会議場には、彼の得意な印象派と幾何学の融合された半屋上庭園のようなものがあり、バビロンの空中庭園を彷彿とさせるものがある。


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エジプトとエロスと下ネタ(笑)

最近ずっとブログ放置しておりましたwwww

なぜでしょう。

ネタが思い浮かばないからです。

昨夜、孤独すぎて悔し泣きした夢を見ました。

誰かに助けを求めようと一瞬誰かの手を取りますが、

自分の意味不明なプライドと、

傷つくことを恐れて

手を離しました。

誰かに寄り添って泣いて傷つくより

一人で歯を食いしばって泣くほうが私らしい。




さて、今回は、エジプトとエロスと下ネタ(笑)について書きたいと思います。

1、古代エジプトの社会制度とジェンダー
古代エジプトは「男性社会」であった。しかし、強い男尊女卑的社会であった当時のギリシャの学者(ヘロドトスやシクルス)は、エジプト女性の地位が高いと記していた(内田,2007)。ここで私は、古代エジプトのジェンダーを見ていきたいと思う。
不倫についてだが、古代エジプトにおいては夫が独身女性を愛人にすることは、(跡継ぎを確保するという名目のもとに)大目に見られる場合があったのに対し、人妻が夫以外の男性と関係を結ぶことは重要視され、離婚の理由とされたそうだ(内田,2007)。ここから読み取れるのは、古代エジプトは血縁主義だった可能性がある、ということだ。
文化人類学観点から読むと、人妻が夫以外の男性と関係を結ぶことは重要視される理由については、女性がほかの男性と乱交すると、その子供が誰の子どもかわからなくなってしまうと考えられる。よって自分(夫)の血縁相続の明確化のために、妻による自分以外の男性と関係を結ぶことを禁じる必要があったのだと考えられる。

2、古代エジプトの美術と記号
 古代エジプトは多神教であったが、その中にプタハという創造神がおり、そのプタハ神は、世界を構成するあらゆるものを作るためのすべての素材を体内に持つとされていたそうだ(2001、内田)。ここで、スイスの法学者、バッハオーフェンの『母権論』の思想を介してプタハ神を見てみたい。『母権論』の内容をすごく単純に解釈すると(間違っているかもしれないが)、質料は女性のメタファー、形相は男性のメタファーと捉えることができる。それを踏まえると、ものを作るためのすべての素材を体内に持つとされている(つまり質料を備えている)プタハ神は、女性なのではないかと推測できる。しかしそれを調べてはみたものの、プタハ神の性別は不明であった。
 古代エジプトには、マアト(秩序)という概念があり、美術に課せられた規範も、マアトの一環とされた(2001,内田)。よって、美術ははじめに決定された「枠組み」を超えることはなかったのだそうだ。したがって、古代エジプトの美術は、芸術哲学の反映というよりは、構造の可視化、あるいは具現化ということができると考えられる。
 壁画に描かれてあるものは、それぞれに意味する記号として描かれていたようだ(2001,内田)。描かれている人間がみな同じようにみえるのはそのためだと考えられる。つまり、壁画に描かれてあるものは、「記号」として存在しており、言い換えると、見立てということになるのではなかろうか。したがって、それぞれの文字がかたどっているものと同じ力を秘めていると見做され、つくられたヒエログリフとも無縁ではない。浅田彰さんの記号論を踏まえてこのあたりをもっと掘り下げれば面白そうだが、紙面が足りないので割愛する。一つ言えることは、「今この一瞬を捉える」印象主義の画家の技法とは相反する描き方なのではないか、ということだ。

3、古代エジプトの神殿と表象
 最後に、古代エジプトの神殿についてみていくことにする。資料を見ていくと、カルナック宮殿にそびえ立つ無数の柱と、壮大なオベリスクが目にとまった。印象論でしかないが、男性のファルスのメタファー、つまり権威の誇示を表象しているのではないかと思った。また、「オベリスク」という言葉に注目した。イスラムの世界観を表す「アラベスク」、沖縄の城「グスク」からを見るとおり、「スク」には世界観や宗教、神に対する共通の聴感覚なのではないかと思った。それに関して調べてみたが資料は見当たらなかった。
 また、王の名を柱に刻むことを、「カルトゥーシュ」と言ったそうだ。ここからも、権威の象徴に「名前」という魂を刻印することで、その名前を持った者に権威が授けられるという行為的シンボライズが私には見えた。
 古代エジプトで一番大きいオベリスクを残したファラオの名を、ハトシェプストと言った。女王であり、男装をしていたそうだ。個人的印象で言えば、オベリスクの大きさは、自己顕示欲と虚栄心の表れなのではないかと考えていたが、女性だということで、男性に対する性別のコンプレックスがあったのではないかと考えられる。よって、ハトシェプストは、身体的女性、社会的男性として生きていたのではなかろうかと推測される。
 資料を見ていくと、王家の谷には絢爛な絵が描かれてあった。距離感が独特で色彩もビビッドなところが、ピカソのキュビズムみたいだと思った。
 古代エジプトの神殿は、神とファラオが交流する場と考えられていたそうだ。ここから考えられることは、人間たちが、自らの神像を神殿の建築や装飾によって演出していた、ということだ。
 先ほども少し触れたように、壁画に描かれている人間はみな同じような姿で、平面的、そしてうねりやひねりが見当たらず、また影がない。なぜそのような描き方になったか、先ほどの推測とは違う観点から考えてみると、古代エジプトは山が無く、太陽が強く当たる地域だったため、影の描きようがなかったのではないか。また、心理学的に見ると、ヒトがアウトプットするものは、そのヒトの経験したものや所持している世界観、つまりスキーマに限られる。したがって、壁画に描かれている人間にうねりやひねりないのは、古代エジプト人は、生活圏の地域的特徴から、あまり身体をひねらずに生活できたのではないかと考えられる。
 歴史から消された王に、アメンヘテプ4世がいた。彼は、多神教から一神教(アテン神)に宗教改革を行ったが、失敗した。ここから、アメンヘテプ4世は、男性社会への移行の失敗をしてしまったのではないかという仮説が浮かぶ。
 ツタンカーメンの装飾は、絢爛であるとともに、何だかとってつけたようなわざとらしさと虚無感を覚えるのは私だけであろうか。印象論でしかないが、ツタンカーメンと中国のラストエンペラーは何か似た匂いがする。大人たちの黒幕傀儡政権により、劇場に立たせられたマリオネットに見える。

メンヘラの憂鬱

この世には

「私の闘病生活物語」とやらがごまんとある。

病気のおかげで命の大切さを知りました

とか

苦しい事もたくさんあったけれど今では病気に感謝しています

とかね。

それをひけらかして闘病の苦しみを昇華しているのかもしれないけれど

(私もそうだと思う)

毎日のように聞いているとね

だんだん

病気の苦しみを知らない命の重さは、闘病で磨かれた自分の命の重さよりも軽いんだみたいな論説になってるように聞こえるんだな。

うん、私はそれで一回知人にキレてその子と縁を切ったんだが(冷たい女だなぁ、私は、とつくづくw)

私も度重なる精神疾患を煩いエスカレーターのように心理学を専攻したけれど

精神疾患が無かったら受験競争に参加できたかも知れないとかって言って疾患に感謝もしないし

借金取りに追われて夜逃げした人とか色んな話を聞くから別に私のゴビョーキが偉いわけでも無いしひけらかすもんでも無いし

と思うんだわな。

あと、一番悲しいのは

私は人間として、友達として付き合っていきたいのに

「心理学を専攻する子だから私の苦しみを優しく聴いてくれる子」

というようにカウンセラーという役割を押し付けられるとちょっとツラいんだよね。

っていう憂鬱(笑)

やっぱりみかんせい

メンヘラじゃなきゃ私が私でいられなかった

私からメンヘラを取ったら何もかもが空っぽになってしまうと思ってた

私が消えてしまわないように

自分を痛め続けてきた

その手を止めたら

私が粉々になってしまうから

そんな私の前に、あなたが現れた

あなたを知りたくて

あなたと話したくて

あなたに「君と話をしていて楽しい」と言ってほしくて

たくさん、いろんなものを見るようになった

私は空っぽじゃなくなった



あなたに会えて嬉しいと思った


でも

あなたの空っぽな部分を埋める人は

私じゃなかったね

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