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自己呈示、印象操作

今日、グループダイナミクス論の講義があった。

講義内容はそんなにおもしろくないんですが

「グループダイナミクス」という研究分野はかなりおもしろいんですのよ。

たとえば、「自己呈示」って言葉があるじゃないですか。

印象操作ともいうのですけれども。

他者に好印象を与えようとする行動のことなんですね、自己呈示(印象操作)って。

でも、あたし思うんですよ。

印象操作をしようっていうその意思が自ずから出てくる環境って、

当たり前のように見えて、実はすごく幸せなことなんじゃあないかと思うのだよ。

だって、私、中二病をこじらせていますから、

毎日この大学にいて、生きている感じがまったく無くて、

ここが自分の生活環境、共同体だという感覚は全く無くて、

他者に好印象なんて与える気すらない。

どう思われても別にどうでもいいし。

自分の共同体がよくわかりませんのよ単純に言うと。

だから社会上層部が共同体って言い始めると、

私の居場所が消えてしまうクライシスに陥るわけですよ。

私の居場所は別にあるっていう妄想的期待が消えるから。

あれだ、自分の生活圏の認知方法の修正に迫られているのであろうが

何かが消えてしまいそうになるのがこわくて私は中二病という病に

すがりついているのです。



私は東京で一人暮らししたり、

京都に住んでみたり、

岐阜で引きこもってみたり、

千葉で男に溺れてみたり、

土地によって「相沢祐香」の像が極端に違うのよ、私は。

一生って一度しかないじゃない?

だからできるだけたくさんの人生を経験してみたいっていう願望が私にはあるのね。

だから東京では妹キャラのあまえんぼさんだったり

京都では歴女だったり

岐阜では非リアのテータラクだったり

かなり人格が違う。

でも悪く言えば一貫性がない。

完全にアイデンティティクライシスですよねーww

自分が誰だかわかんない。

いや、信頼性と妥当性の高い知能検査で平均以下の結果を出すのが

唯一の私のアイデンティティなんだろーなーとは思いますが

だったらそんなアイデンティティ、要らないし受け入れたくもありませんww

アイデンティティを受け入れるくらいなら、妄想の期待にすがりついて生きていきますって感じ。


それから、人ってさ、「こういうグループには入りたい(自分を認めてもらいたい)けど、こういうグループには入りたくない(認めてもらわなくていい)」っていうのがあるじゃない?

たとえば、マジメちゃんクラスタには認めてもらわなくていいけど、ギャルクラスタのグループにはすがり付いてでもそのグループに入っていたい、とか、その逆もあるだろうし

メンヘラクラスタとかマジキモイけど、腐女子クラスタでは承認してもらいたい、とか、その逆もあったり。

でも、あたしはそこんとこ、すんごい不安定なんだ。

すごくわかりやすく言うと、

サンクチュアリっていう漫画の暴力団会長である北条彰の愛人にもなりたいし、

代議士の浅見千秋の愛人にもなりたいっていう。

(例えがあまりにもおかしいww)

まさしく認知的葛藤というか、

極端に正反対のクラスタに好かれたい、意味不明な願望に囚われるのよ。

だから、毎日私はどちらの愛人にもなれず、どちらにも承認されず、

宙ぶらりんでフヌケな生活ばかり送ってしまう。

実は、中村うさぎと私で決定的に違うのは

「本当の私って何?」という問いを自分に投げかけるかかけないか、ということで。

私はそんな疑問、一度たりとも沸いたことがない。

自分の自己実現欲求を自分の実力で満たせれば、自分が何者であるかなんて問う価値も無い

って思ってたんですね。

でも、グループダイナミクスを考えると、

たちまち私は実存(って言葉あんまり好きじゃないんだけど)クライシスに陥るわけよ。

そうか、私には大量のペルソナという武器があって、

それで人生を楽しんでいる気になっているけれど

本当は、自分が幽霊なんじゃないかっておもうときもあるよ。

ホントに。
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再び中二病をこじらせましたw

私は今まで

常に自転車操業のように自分の存在を確認し続けないと

自分の存在価値、そして自我や記憶が消えてしまうのではないかと

ずっと恐怖を覚えてきた。

これは私の自我発生と共に付随してきた

いわば私の自我とセットのものである。

これを巷では自己不確実感というらしいが

自我発生と自己不確実感がセットなら

やっぱ私の自我なんてどこにもなかったんじゃん!

って思うんですよ。

私が宮台真司の本を読み散らかすのも

宮台さんのいる社会上層部、つまりあちら側に、私の存在を消されないように

彼らの考えを知っておかないと的なスタンスだったんですよね。

不労所得だわラットレースだわ言ってそういう勉強をしようとも、

自我確認のラットレースを誰よりもしてるんじゃあないかという意味不明な自負があるわけですよ。

これをSPSSで分析してイチバン取ったらギネスブックに載るんじゃあないかという勢い。

たぶんあんな風にして自我をメタ認知し私だから

この世でぽつねんと

あの世の人間としか心の繋がりを得た事のない感覚を

ずっと背負っているのではないかと思うのよ。

わかってくれる人なんて期待してない。

生きてる人にわかってもらえた記憶なんかないから

繋がろうとも思わない。

排除してるのかされてるのか

はたまた

排除されてるんだけど心理戦略で「排除している」感覚を植え付けられてんのか

わかんないけど

ニセモノしか見えない私は

やっぱり自己責任以外の生き方はよくわかりません。

中二病をこじらせました

私はふと、自分が物理的にこの世に存在していて、でも自我は存在していないような感覚に襲われることがある。

絶対的孤独というか。

私は、ある映画を見て、自分に命がある事をメタ認知したような、まぁクダラナイ人間である。私の命も軽いってもんよ。

身近な人間に愛情も無く、身近な人間の死も知らず、身近な人間の暖かみも知らず、身近な人間との共存も知らず、今まで生きてきた。

だから大半のいわゆるお涙ちょうだいの感動物語も殺伐としたキレイゴトにしか思えず、

そういうもので団結力とか、私の人生には介入しないだろうなと、今でも思っている。

共同体に馴染みたくない。

馴染んだら、何かを忘れてしまう、何かが消えてしまうと思っているから。

だから、ネオリベ的自己責任の社会は比較的スムーズに享受したのよ、私は。

でも、今ネオリベバッシングの時代じゃない?

怖いよね、正直。

最近ね、宮台真司の「日本の難点」を読み返したの。

あれが宮台さんの「商業的」文章なのか本音なのかは知らないけれど、

内容が、私のみた映画の主人公とは正反対の考え方でさ、

私、もうどうしたらいいかわかんなくなっちゃって。

その映画の主人公は「山田かまち」っていう17歳の少年。

彼の生きざまをみて私は自分の自我を初めてメタ認知したわけ。

中学生の頃だね。

だから、自我は社会や共同体が無いと構築されないとか

そんな理論、私にとっては何の価値もないの。

私の身近に山田かまちなんていないし、そもそも彼は私の存在なんか知らない。

私の人生はある意味で誰とも接触をしたことの無い

完全自己完結の孤高な存在なわけ。

解釈は完全には模倣出来ないけれど、私の人生なんかかまちがもし生きていたらみたいな実験のような人生で、かまちは死んでしまったけれど私はそれから5年も長生きしちゃって、世の中のイバラをべらぼうに受けて、

それをかまちへの一方的なストーカーのような愛だと妄想することも可能だけど

会ったこともない死んだ人に対する愛情ってなんだよそれプラスチックみたいな愛なんかほざいてんじゃねぇよって感じだよな

だったら私の自我は幻で架空なのかよってなんだか虚しくなるよね。


しかもよりによって山田かまちと宮台真司は同じ年に生まれて全然違う人生哲学を培って

一方は死んでしまって

一方は生きてしまって

そんな二人の書物に翻弄されるバカ女が今ブログでクサクサ時間を費やして

私は何を体現したいのさ

何を証明したいのさ

何に触れたいのさ

何が幸せだと思うのさ

どこに歩いていきたいのさ

何を見たいのさ



「人間」という生きざまってなんなのさ

ネオリベの自己責任と共同体のお話

まだ体調が戻っておりませんで、本当は出来るだけ脳を休ませないといけなくて

「私」は自分の脳を気遣って、中村うさぎの本を読みたいのにその時間を割いて睡眠時間にあてているのですが

なんせ多分脳は躁、気分は鬱の分裂状態なんですね。

眠りは浅いし何度も目は覚めるしずっとアメリカ映画みたいな夢を見るし

「己」の脳は「私」の気配りを何だと思ってるんだと怒りを覚えるのですが

まぁ、こういう脳で生まれたからには

受け入れるしかないのです。

稀に「私」が所持する脳は稀に「私」の意思とは全く別のところで天才的な能力を発揮するので

まぁ苦しい事は多いがそこが憎めないというか可愛らしいというか、

誰にもわかってくれなさそうな私の体験談です♪

とりままだ「己」の脳はジャミジャミ言ってますが

ちょっと思考が止まらないので

ツラツラ書こうと思います。

私は自分と他者の間に明確な線引きが無いと不安になってしまうのです。

多分自我が確立されていないんでしょうね。

だから、最近、大地震とか原発問題の事もあってか

西も東も東海も学者クラスタはこぞって

ソーシャルキャピタルやら共同体やら包括社会やらで大盛り上がりなんですね。

私にとって、そんな恐ろしい社会は正直生きづらいです。

私は、ゆとり(教育失敗)+ネオリベ的自己責任(小泉&竹中)社会で育ったので

あぁ社会には頼れないから自分で自分を守るのね、と解釈したので

姑息っちゃあ姑息なんですが

自己責任社会が一番ラクなんですよね。

今更共同体とか言われても困る。

この前、都会生まれの都会育ちの都会の大学に通う学生からイナカの共同体論を教えていただいたのですが(とある学者の受け売りらしい)、それを聞いた私はかなり恐怖を覚えたのですよね。

そんなんでわかったような顔をされるのは困る。

都会の学者様がサラッと言うことが社会の常識になるならば、やはり私は今後の社会は恐ろしいと思う。

限界集落にフィールドワークじゃなくて実際に住めよ、とツッコみたくなる。

あああ、あたしは何が言いたいのかわからなくなってかた。

とりあえずですね

心理学の授業でよく「自我」とか「自我発達」という言葉が出てくるのですが、

「自我」は「社会」があってはじめて構築されるという説があるらしいんですわ。

アノミー状態だと自我は発達されないとのこと。

私は社会は構築されずとも自我は構築されると思っていたから

ちょっと驚きなんですね。

そんなんさ、共同体とか言われたらさ、

新しいイエ制度みたいじゃん!

イナカの人間をイナカに縛り付けるみたいなさ、

自分の人生を自分の意思で開拓出来ないじゃん!

イナカの仕事って何があると思う?学者さん。


現代社会人の欲望である承認欲求と自己顕示欲はイナカでどうやって満たされると思う?学者さん。


ってか話戻すけどこれだけ「我思う故に我あり」が否定されている社会だから私の考えも古いんだろうなぁとは思うけど

私みたいに自我な不安定な人で共同体に対して恐怖を覚える若い子は少なくないんじゃないかなぁと思うのだ。

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