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岡倉天心と廃仏棄釈

<岡倉天心と廃仏棄釈>

私が思想家の浅田彰氏と会いたくて(結局会うことは出来なかったが),京都造形芸術大学に行った時のことだった。入口に,とても大きなブロンズ像があった。ちょびヒゲをはやしたおじさまだった。名前を見ると,「岡倉天心」と書いてあった。私はその日から,岡倉天心に関心が向いた。以下に,岡倉天心が世界に影響を与えた内容を記述する。
 岡倉天心は,1863年、横浜に生まれ,学生時代はお雇い外国人教師アーネスト・フェノロサに政治学、理財学(経済学)を学んだ。
天心は、日本美術に傾倒していたフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めていった。
文明開化という時代風潮の中、明治はじめの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していった。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになる。
天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、1897年に公布された「古社寺保存法」に反映されている。また、天心の古美術保存の精神は、1929年の「国宝保存法」、さらに1950年の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっている(茨城大学五浦美術文化研究所,2000)。

<ホックニーと龍安寺>
 私は中学生の頃,イギリスかぶれであった。日本文化に興味をまったく示してはいなかった。しかしある日,ひとつの作品と出会った。デイヴィッド・ホックニーのフォト・コラージュ『龍安寺の石庭を歩く』である。私は圧倒された。日本人である私の目に映らないものを,海外の人は見ていたんだと。いわば文化の逆輸入であった。
 以下から,デイヴィッド・ホックニーについて書きたいと思う。大学の図書館に適切な著書がなかったので,高松宮殿下記念世界文化賞の公式ホームページの文章を引用したい。

 デイヴィッド・ホックニーは,20世紀~21世紀のイギリスの画家であり,イギリスの20世紀の現代芸術を代表する一人である。1971年、日本を訪れ帰国後に描いた「ウェザー(天候)シリーズ」の「雪」や「雨」、「富士山と花」には、浮世絵や日本画の影響が見てとれるそうだ。
そのホックニーが,第1回高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門に受賞されたとのことだ。
高松宮殿下記念世界文化賞は、日本美術協会によって1988年に創設された。58年の長きわたり日本美術協会の総裁を務められた高松宮殿下の「世界の文化・芸術の普及・向上に広く寄与したい」とのご遺志に基づいて、また日本美術協会が創立100周年を迎え、2世紀目の活動に入ることを記念して創設された全世界の芸術家を対象にした顕彰制度である。

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そもそも「文化」とは何か

私は昔から,民族音楽が好きであった。モンゴルのホーミーや,ブルガリアの音楽,スコットランドのバグパイプや沖縄の民謡など。

 沖縄の音階はなぜ西洋のものと違うのだろう,なぜ民族や地域によって,衣装の文様パターンやデザインや好まれる色が違うのだろう。これらの疑問は,その地域に住む人々の心を研究していけば自ずと答えが見つかるものだと信じていた。その地域の人々がその文様やメロディーラインを好むから定着したのだと。心理学というブラックボックスのような学問で全て解決できると思っていた。けれど,答えに達することが出来るようなヒントが何一つとして見つからなかった。

まず,人間の心の発達は内部要因と外部要因がある。その内部要因に焦点を当てながら今回の疑問を解決していく。また,心の存在というのは,独立して現れるものではなく,言語や自然環境,気候や他者との交流などと共に徐々に発達する。
 音楽を奏でる楽器は,身の回りにある資源(リソース)に制約を受ける。ゆえに,地域によって音楽が変容するのは,「そこにいる人々がそのようなメロディーラインやリズムを好んだから」という,沢山の可能性からの「選択」というよりは,「そこにそういうものがあったから」という「出来事」,と考えることができる。
 何か疑問を解決したい場合,一つの学問に固執するのではなく,様々な学問にアプローチしていくことが大切だと思った。

 ここで疑問なのだが,「日本の文化」などとよく言われるが,例えば日本とよく似た文化がまったく違う地域でも見られた場合,それは資源が似ていたゆえに互いに独立して発生した文化なのか,それともどちらかの文化をどちらかの地域に輸出,影響を与えた事が起因しているのか,学者はどのように研究計画を進めるのだろうか。
 また,「日本」とはそもそも何を指すのであろうか。例えば,北方領土の歴史や文化は日本の歴史と言ってもよいのか。沖縄の歴史や文化は日本のものだと規定して,沖縄の人は納得するだろうか。今後時間があったら,ここの領域も調べてみたい。

舞妓、巫女、夜這い、イエ制度

 私は以前から伝統文化に関心があったので、独自で調べていた。けれど、調べていくうちに、伝統文化というのは再帰的に造られるものだということが分かった。
 私が「日本の文化とは何か」と訊かれた場合に思い浮かぶのは、書院造りの建築、着物、舞妓の半だらの帯、鱧料理、参勤交代、夜這い、イエ制度、歌舞伎などである。
 しかし、京都には参勤交代はなかったし、逆に鱧料理は京都独特のものだと言われている。書院造りの建築デザインは大陸から輸入されたことの影響が大きいから日本独自のものと断言することも難しいし、ブルーノタウトが桂離宮の書院造を見て評価した歴史があったと言えど、それを完全に日本の文化がドイツの建築家に影響を与えたとは言えないのではないか。
 本州の人々が北と南を征服する以前の日本地図の範囲は現在のそれとは違うし、元寇以前の日本地図と呼ばれるものは現在の奈良県とその周辺のみである。それはつまり「守るべき自国」の範囲を国という単位で規定したものの反映なのだそうで、これを文化と結びつけるより政治的文明と結びつけた方ががふさわしいような気もしてきた。
 イエ制度は共同体文化から派生した関係性の特徴なのか国策なのか断定できないし、家族制度を整えて効率よく生産性を上げるという政策を実行したのは日本だけではない(エンゲルス,1820-1895)。従って、イエ制度から派生した夜這いという文化も日本独特と言い切ることはできない。
 現在の「着物」と呼ばれるもののデザインは19世紀に完成したと言われており、それ以前のデザインは全く違うものだといわれている。19世紀に完成されたデザインを「伝統ある文化」とみなしてよいのだろうか。
 また、私は趣味範囲で京都の芸妓の研究、岐阜の金津園や長良川周辺の独学をしていたが、太夫と芸妓の成立過程や仕事内容は違う。江戸の芸者と京の芸妓も違う。しかし、海外の人が思い描く「ゲイシャ」は全て一緒に見なして語られる。これを、本当に「影響を与えた」と言っていいのだろうか。小津安二郎監督の撮った『秋刀魚の味』という映画で、欧米人がヘタな三味線を弾くシーンを想像して「日本は、戦争に負けてよかったなあ」と話しているシーンがあった。最初みたとき、何を言っているんだろう、小津さんは俳優に何を喋らせているんだろう、そんなこと公言してもいいのか、色んな事を考えた。
 影響を与える、というのは、一概にプラスに働くだけではないのかもしれない。私が安易に映画に関して述べるときっと先輩に怒られるだろうが、どこにも出ていかずに、日本人にしかわからない感性だけで愛される文化があってもいいのではないか、というメタファなのかもしれない。フランス人が「ドビュッシーの曲はフランス人にしかわからない」と言うように。
 祇園や芸妓に関してはまだ書きたい事が山ほどあるのだが、テーマからそれるので割愛する。
 元総理大臣である中曽根康弘は日本の事を単一民族国家だと見なし、長らく「日本に少数民族は存在しない」ことを日本政府の公式見解としていた。しかし、その見解に対して異論があったそうだ。アイヌ人、在日コリアン人、台湾人の特別永住者など、少数民族はいる。そのような事実を覆い隠してひとまとめに日本の文化と言ってもよいのか。小笠原諸島には欧米系島民がおり、彼らは日本国内で迫害され存在を隠蔽されてきたが、彼らの独特な生活習慣はちゃっかりと日本文化とみなしてもよいのか。
 歌舞伎の元祖は、1603年に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国と言われている。阿国は出雲大社の巫女だったとも河原者でもあったと言われている。巫女や河原者を始めとした渡り者は当時差別されていたそうだ。
 私はかつて屠場に関心があった時期があり、昨年、企画展として写真展が開催されるということで大阪人権博物館に行ってきた。
 大阪博物館には、様々なパネルが展示してあったので、一つひとつ見ていくことにした。そこで、江戸時代に太鼓を作っている人や庭園を作る庭師も被差別民だったことを知った。
 衝撃的だった。私は、何も知らずに京都に住んで、毎日観光にお客様としてはしゃいでいただけだったのかと。現在日本の伝統文化として確立している歌舞伎、太鼓、庭園は、差別という痛みを伴って形成されたことも知らずに、ただ「美しい日本の伝統文化」として海外に紹介していこうとしていた私は、もっと勉強しなければと思った。

私は遊女研究で何を得たのか

最近歴女ブログばかりですがお許しをw

さて、3年の後期は遊女研究に突っ走ってしまいましたが、

なぜ遊女研究をしたのか

まぁ後付けでしかないのですが

まとめてみることにします。

私は中学生のときまで、ホントに日本が嫌いで、欧米かぶれで、アスカラングレーそのものだったんですね。

で、何度も書きますが、オーストラリアにホームステイ→日本を語れない自分に気付き、日本を知りたいと思うようになる。

日本人としての帰属意識と誇りを再帰的に得たんですね。

だから私の巫女バイトや遊女研究や祇園でバイトなどというのは

帰属意識の再認識に他ならないんですね。

帰属意識に枯渇している。

なので、「舞妓、遊女研究で何を得たのか」と訊かれた場合

1、女性としての強かな生きざま、美しい生きざまを知れた

2、自分が日本人としての帰属意識を再確認できた

3、海外の人と情報交換する際に、日本の話の一つとして紹介できる

4、社会システムが変容することによって、人間の思考や生活スタイルが変わる具体例が知れた

5、歴史は政治的政策によって変容する事が知れた

ぐらいですかね。

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