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霊感療法としてのセックスは合法か

<信教の自由と加持祈祷治療>
最高裁昭和38年5月15日大法廷判決

 被告人のS宗僧侶Nは,被害者Iの母親などから,Iが精神異常と思われる言動を示すようになったので,その平癒のため加持祈祷をしてもらいたいとの依頼を受け,約一週間にわたり経文をとなえ,数珠で身体をなでるなどして祈祷した。しかし平癒しそうにないので,Iの自宅の八畳の間中央に護摩壇を設け,そのそばにIを座らせ,護摩壇に専攻を焚き,線香護摩による加持祈祷をはじめたが,Iが先行の熱気のため身をもがき暴れ出すと,父親などにIの身体を取り押さえさせたり,あるいは腰紐などでその手足をしばらせたりして,Iを無理に護摩壇の近くに引き据えて線香の火でけむらせ,手で殴るなどの暴行を加えた。そのためIは全身の多数の個所に熱傷および皮下出血を負い,祈祷開始約4時間後急性心臓麻痺により死亡した。
 第一審は,右のような事実を認定した上,被告人の行為は刑法205条1項の障害致死罪に該当するものとして,被告人を懲役2年,3年間執行猶予に処した。
 被告人は,事実誤認,法令違反,憲法違反を主張して控訴したが,第二審は,それらの主張をすべて排斥し,控訴を棄却した。

<判旨>
 上告棄却。
 最高裁は,憲法第20条が何人に対しても保障する信教の自由は,基本的人権の一つとして極めて重要なものであるが,絶対無制限のものではなく,公共の福祉の観点から制約を受ける場合があると論じた上,精神異常者の平癒を祈願するために宗教行為として加持祈祷行為がなされた場合でも,それが原「判決の認定したような他人の生命,身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当たるものであり,これにより被害者を死に到したものである以上,憲法20条1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかはなく,これを刑法205条に該当するものとして処罰したことは,何ら憲法の条項に反するものではない」と判示した。

 私がこの判例を読みたいと思ったきっかけは,自分が宗教に関心があって巫女のバイトをしていたからなんですが,宗教は心理学の分野でものすごく研究されているけれど,法学の領域でもつきまとう問題なのかと改めて思いました。
 本判決は,基本的人権と公共の福祉の関係が重視されます。この前のブログに,日本の政教分離にはそれなりの歴史があることは述べましたね。個人がその宗教を通じて社会に働きかける場合には,そこに社会的要素が加わり,そのため必然的に社会とか国家との関係が生ずるものです。宗教行為その他を通じて社会に対しなんらかの影響を与える場合,それはもはや個人の宗教ではなく,社会における社会の宗教として取り扱われねばならない。したがってそれが公共の福祉すなわち社会全体としての利益に反する場合,国家は社会的見地から法でもって干渉し制限を加える,という見解があります。
 確かにそうですよね。霊感商法で親族が壺を買ってきたとしても,こちらとしては何も手立てがなかったら嫌ですもんね。また,「霊感療法なんだ!」とか言われて強姦とかされてもたまったもんじゃありませんね。強姦された女性が仮にそれで悪霊退治してもらったと盲信してたとしても,親御さんが傷ついちゃいますよね。
 今回の論点とは少しずれますが,私が心理学を専攻しているということもあって,裁判で用いられる精神鑑定の信頼性,医療観察法について調べていた時期がありました。本判決は昭和38年なので,どこまで精神医学,心理学の領域を裁判官に理解してもらえていたかはわかりませんが,被害者Iが「精神異常」としか書かれていなくて,具体的にどのような症状なのかはわかりませんでした。もう少しここらへんが知りたかったですね。
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刑法200条の立法目的と心理学

<尊属殺重罪と法の下の平等>
最高裁昭和48年4月4日大法廷判決

 実は,私が判例に関心を示したのはこの事件がきっかけでした。中立性と土着的な文化がどう折り合いをつけるのか,個人の幸せと風習や共同体の慣習はどう折り合いをつけるのかというのは心理学の観点から見てもとても興味深かったのです。
 刑法200条の立法目的に,自然的情愛ないし普遍的倫理の維持がありますが,尊属という観念が自然的情愛か否かを問われれば,様々な研究分野でそれは違うことは明らかになっているし,普遍的倫理と書いてあるけど,儒教文化が普遍的倫理であるはずが無いと私は思うんですね。
 いつもお世話になっている先生いわく,現在,六法にまだ刑法200条は記載されているが,それを用いて裁判に挑む人は,その人が弁護人であれ,原告であれ,検察官であれ,ほぼ勝てない,だから今では全く使われていないのだそうです。
 ここで更に興味深いことに,刑法200条の立法目的の認識と評価についての私の違憲が,どうやら当時の少数意見であったようです。多数意見は,先に述べた「尊属に対する敬愛や報恩という自然的情愛ないし普遍的倫理の維持尊重」,少数意見は「封建的時代からの伝承にかかる家族制度の維持,強化」です。
また,旧家族制度の親子の権威服従関係を維持しようという意図が読み取れるとの意見や,裁判所には親による子の性的虐待という問題意識が欠落しているという意見もあったそうです。
 私は,儒教文化やイエ制度に関してジェンダーの観点,また共同体の資産の維持,相続の観点から調べていた時期があります。ゆえに,他の人がどうだかはわからないけれど,私は少数意見の方がしっくりくる。半分国策に近いものがあるように思っていたけれど,司法関係者という,正義を司る者が「愛」やら「自然」やらというキレイゴトにすり替えるとはどういう事なんだろうと(毒舌すみません)思うんですね。
 それから,旧家族制度や性的虐待に関する意見は,本当に的を射ていると思いました。


 被告人は中学二年のとき実父に姦淫され,以後10年以上夫婦同様の生活を強いられて数人の子まで産んだ。たまたま職場で正常な結婚の機会にめぐりあったが,実父はあくまでも被告人を支配下において醜行を継続しようと,10日余りにわたり脅迫虐待した。このため被告人は,このような忌まわしい境遇から逃れようと実父を絞殺し,自首した。
 刑法200条の尊属殺で起訴されたが,第一審は,同上を憲法14条1項違反とした上で,過剰防衛の成立・心神耗弱を認めて刑を免除した。しかし控訴審は,刑法200条を合憲とする最高裁判例に従って同上を適用し,刑法上許される最大限の減軽を加えて3年6月の実刑判決を下した。
 被告弁護人は,刑法200条の違憲を主張して上告した。最高裁は,控訴審の判決は憲法14条1項に違反して無効であるとして,破棄自判。

憲法の政教分離における目的効果基準

 私はどうしても,世界に影響を及ぼした日本の法律に関するレポートを書きたいという趣旨を友人にメールしたら,友人は快く返信してくれた。内容をまとめると,「憲法の政教分離における目的効果基準」「人権制約の領域で学説として登場する二重の基準論」「ドイツから輸入された憲法が,後にどのように日本人に馴染むように改変されたか→それが日本固有の法の考え方の一つとなる」「憲法13条で保障される人権の種類」である。わけがわからない。
 しかし,逃げるわけにはいかない。というか逃げたくない。早速私は図書館の本棚に連なる本の背表紙と見つめあうことにした。はじめまして,法律コーナーの本たち。
 はじめに,憲法の政教分離における目的効果基準に関してのレポートを進めたい。政教分離を取っている代表国はフランス,アメリカ合衆国,そして日本である。
 フランスでは,封建時代にカトリックと国家権力との結び付きがプロテスタントを弾圧,ひいては宗教戦争を引き起こしたという経験から,近代以降伝統的に政教分離を徹底した。アメリカ合衆国ではイギリスにおける宗教的圧迫を逃れた人々により建国された歴史を反映して,合衆国憲法が定めたもの。日本国憲法は,20条1項後段,20条3項,89条前段で定められている。
 日本の政教分離を考えるにあたり,その特徴として考慮に入れておかなければならないのは,戦前の神社神道と国家の関係である。神道は天皇制との関係から特別扱いされ,国教に準ずる地位に置かれていた。戦後,連合国総司令部が発した「神道指令」により神道は国家から分離され,日本国憲法はこの歴史をふまえて第20条で信教の自由と政教分離を明確に示した。
 しかし,政教分離といっても政府が全く宗教と無関係でいることは不可能である。以下に,過去の判例から考えてみる。

信教の自由・政教分離の原則と自衛官の合祀
最高裁昭和63年6月1日大法廷判決
<事実の概要>
殉職自衛官の夫をキリスト教によって追慕していた。ところが,殉職者の他の遺族から山口県護国神社で合祀してほしいという要望を受けた県隊友会は,その実現に向けて同神社と折衡を重ね,その結果合祀が可能になった。県隊友会の合祀申請は,地連職員の協力を得て実行されたが,実質的にも県隊友会の単独の行為である。(なお,被上告人は,夫の合祀を拒否し,訴訟を提起して一,二審で勝訴したが,上告審で敗訴した。)

<判旨>
憲法20条3項の宗教的活動はいわゆる目的効果論にしたがって判断される。
(一)(1)本件合祀申請という行為は,殉職者の氏名と殉職の事実を県護国神社に明らかにし,合祀の希望を表明したにすぎない
  (2)地連職員の行為は,意図,目的も,合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることにあった。その行為の要隊も,特定の宗教の援助,助長,促進,他の宗教の圧迫,干渉を加える効果をもつものでない。
(二)(1)法的利益の侵害の成否は,同神社と被上告人の間の私法上の関係として検討すべきことになる。
(2)かかる宗教上の感情を被侵害利益として,直ちに損害賠償を請求し,又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば,かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となる
(3)県護国神社が被上告人の夫を合祀するのは,まさしく信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得るところであり,それ自体は何人の法的利益をも侵害するものではない。

 簡単にいうと,殉職自衛官を護国神社に合祀する目的は自衛官の士気高揚であり,効果も特定宗教を援助,助長するようなものではないので違憲ではないとの判断が下されたのである。
 しかし,わが国の最高裁における目的効果論の使われ方には問題があるとの意見がある。それは,政教分離の本来の意味をぼやけたものにしている,というものだ。先に挙げた事例でいうと,合祀の目的を「自衛官の士気高揚」だから世俗的なものだとしているが,日本の政教分離は戦前に天皇制と結びついた神道が戦争遂行の目的に大いに利用されたことの反省に立っているのではなかったか。とすれば「士気高揚」などという目的に宗教を使わないのが政教分離の意味ではないのか。
 ここで,なぜ私の友人がこの説を「日本的である」と私に教えてくれたかを推測してみたい。そこで,笹川紀勝氏の解説にある政教分離規定の記述に注目する。
 笹川氏曰く,政教分離規定には,実質的制度的保障説と伝統的制度的保障説の2種類がある。前者は,完全分離を貫こうとし,後者は,国家と宗教との関わりを肯定しつつ,それが私人の信教の自由を直接侵害する限りにおいて違法性が生じるという。本事件は,伝統的制度保障説の解釈で県隊友会,地連の行為が無罪となったが,実質的制度的保障説の解釈で審判を下していたら,違う結果となっていたとも考えられる。ここから考えられることに,日本の審判の下し方の傾向として,私人間の問題でない限り政教の完全分離は重視しないことが挙げられる。
 この傾向が日本の解釈の傾向であると仮定してみても,他国ではどのように政教分離を解釈しているのかは分からない次第であるが,ドイツから輸入されそれを元に考えられた憲法が,後に伝統的制度的保障説という解釈の方法を取り入れることによって日本人に馴染むように改変されたと考えるならば,この判例は日本固有の法の考え方として世界に影響を与える可能性があると言えるだろう。

二重の基準論から考える、これからの日本の人権のあり方

 今回のブログでは、相反する権利をどの様にすり寄せるか、に関する内容を、二重の基準論を用いて記述したい。
 先日総選挙があった。この総選挙の結果に対して「衆愚による民主政治」「民度の低い国民の投票権如何」のようなコメントがインターネットの某掲示板で盛り上がっていた。衆愚に包括される私にとって「うわあああやめてくれえええ」という内容であったが、よく考えれば、国民の参政権と政府の実現していきたい政策と、建前上は一致するようになっているはずだがそんなにきれいに世の中回らない。従って、どのようにその二つの領域は譲歩し合うのか、私にとって関心があった。

 二重の基準論とは、人権を規制する法律の違憲審査に際して、経済的自由の規制立法に関して適用される合理性の基準は緩やかに、精神的自由の規制立法に関して適用される合理性の基準は厳しく審査することである。
ちなみに違憲審査基準とは、法令が憲法に適合しているかを裁判所が審査する際に用いる基準のことである。
 二重の基準の問題点として、1)精神的自由でも経済的自由でもない人権(生存権等)は、どちらの基準を適用するのか、2)同じ種類の人権でも、具体的状況の違いによって異なった基準が適用されないか、3)人権の価値序列を認めるか、がある。
 論点としては、この基準の根拠は何か、ということである。これには、機能論的アプローチと価値論的アプローチがある。
 機能論的アプローチは、議会と裁判所の制度的・機能的権限分配を重視して、裁判所が議会の民主的判断を尊重すべきことが前提とされる。経済的自由に関する不当な立法は、民主政の過程による是正に期待して、裁判所は積極的な介入を控えるべきものであるのに対し、精神的自由に関する不当な立法は、民主政の過程自体が損なわれるため、裁判所は積極的な介入を行うことが必要である。
一方価値的アプローチでは、経済的自由は社会的拘束性を負い、法律による後半な規律を受ける。精神的自由は、人格との密接な関連や、社会的価値の重要性を持つ。従って、精神的自由自体に、優越的地位の根拠を求められる。

 次に、日本の二重の基準論とアメリカのそれとの比較を検討してみる。それにはまず、アメリカ、ドイツ、そして日本の二重の基準論の歴史的背景を追うことにする。
 アメリカでは、ニューディール政策以降の司法消極主義に対応するために、つまり司法が積極的に判断する分野を創るために、機能的な議論(裁判所と議会の役割分担)が出てきたのに対し、ドイツではもともと私法消極主義の考え方がなかったので、機能的な議論は出てこずに、権利侵害が大きければそれを正当化する政府利益は大きくなければならないという比例原則の考え方が出てきた。
 そもそも二重の基準論は、元々アメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論だが、その内容は、1)精神活動の自由の規制は厳しい基準によって合憲性を審査する、2)経済活動の自由の規制は立法府の裁量を尊重して緩やかな基準で合憲性を審査する、である。
 日本の場合、アメリカ型の解釈とドイツ型の解釈が混在しているのだそうだ。つまり、戦前はドイツを中心とした大陸法の、そして今では、アメリカからの影響を受けている。大陸法系から英米法へと大きく梶を切った日本の司法界は、その混乱はいまだに続いているそうだ。
 日本の場合、敗戦を契機にアメリカの指導によって憲法が制定され、現代型の社会権を含む人権宣言が作られたわけだが、その結果、明治憲法時代からの自由権と新しく導入した社会権という二つの性質の相反する権利を実現していかなければならないという難しい課題を背負ったのだそうだ。
 ちなみに、司法消極主義とは、司法府は、立法府及び行政府の措置をできるだけ尊重し、その措置が違憲無効であることが極めて明白な場合に限って、その措置の違憲無効を宣言するという立場である。
 比例原則とは、達成されるべき目的とそのために取られる手段(処置)との間に合理的な比例関係が存在することを要請する原則を言う。同原則の元では、わずかな不正に対し、不相当に過酷な処分をすることは違法となる。国内における比例原則の根拠については、①憲法13条説、②行政上の法の一般原則説、③行政条理法上の原則説が挙げられる。

 以上の情報から考えられることに、これまでの日本は、様々な国から法律に関する考え方や知識を元に創り上げてこればよかった。しかし、大陸法から英米法に転換するという、日本独自の法史を築き上げてきた。従って、基本的人権を考える上で今後は日本独自の法律に対する考え方を構築していくべきだと考えられる。
 私が調べた限りでは、二重の基準論が具体的に日本でどのような独自の考え方が展開されているかまではわからなかったので、今後、調べていきたい。
 また、この領域に関して知識ゼロから書き進めたので、間違った解釈や抜けている部分が多々あるかもしれないがご容赦願いたい。今後、様々な文献を読み進めながら、人権や憲法に関する知識を自分の中で形作っていきたい。
 最後に、私に法律を考えるヒントを与えてくれた友人に感謝したい。

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