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物語とセラピーの関係

先日,本屋に立ち寄ったところ,私の関心分野どストライクな内容の本をみつけた。2013年に鈴木涼美が記した『「AV女優」の社会学』である。しかもこの本を公認推薦しているのが,私の好きな小熊英二と北田暁大のお二人ということで,いつか読む機会があればととても期待していた。
 そしてその日はやってきたわけである。がしかし,私がレポートを書くために取った仕事の休日の曜日が,ちょうど図書館の定休曜日であった。私のレポート記述に対する猛烈な情熱は霧となって消えた。
 様々な著書を読み比べながらレポートを進めていくことを断念し,私はwebを利用することにした。したがって信頼性や正確性は落ちる。全国の図書館に幸あれ。
 先述した著書の内容のあらすじは以下のようである。自己を語り,自己を売ることに酔うとき,人はすべて「AV女優」になる。近代社会に普遍的な「中毒」のメカニズムをかく。
 次に,ナラティブセラピーとはどんなものであるかをみていく。
 ナラティブとは物語という意味で,我々はそれぞれの物語を持ち,生きているという考え方が土台となっているのだそうだ。この考え方は,1979年にリオタールが提唱したポストモダンという考え方から影響を受けているそうである。
 ポストモダンという観念は,学生ならば一度は恍惚とその単語の概念を咀嚼する青春を体験するのであろうかと(私とその周囲だけかもしれないが)推測するが,ポストモダニズムとは要するに,世界で共有される一つの大きな物語が解体された,という内容である。
 このナラティブセラピーでの治療者の役割は,クライエントとの対話によって新しい物語を創造することである。セラピーの目標は,新しい物語や解釈による新しい意味を発生させることによって,問題を問題でなくしてしまうことである。
 さらに言えば,治療者の持つべきスタンスも,目の前にいるクライエントに対する好奇心である,とされるそうだ。
 はた迷惑な治療者だと思ったのは私だけではなかろう。
 はた迷惑なこの部分に,私は先ほど挙げた著書をもう一度振り返りたい。クライエントに対する好奇心を持つ治療者,自己を語るクライエント。経済の流れ方を考慮しなければ,これはまさにAV女優とその鑑賞者ではなかろうか。
 この著書の結論はわからないが,AV女優でもクライエントでもなく,日常でもこのようなことは頻繁に見受けられる。
「小さいころに,親から愛情を受けずに育ったから私は,自分を傷つけることを辞められずにいる」などと,滔々とケータイ小説に投稿する自称女子高生。
「自分が今までつらい思いをしてきたのは,自分の心が悪いんじゃなくて,社会が悪いからだったのかもしれない。社会学者の愛人になれば,社会システムを掌握し,人生はもっとのびやかになるかもしれない」と自分の中で幸福に至るまでの正しい啓発であるかのような道筋を立て,早々と実行に移してしまう人。
 全部私である。赤面必須である。これはネタだが,以下に,少し社会心理学に近い話を書いていく。
 現代社会では,何かと自己責任を問われる。または,その今ある人生は,当事者の自由意思,自由選択によるものだとみなされる。自己責任という認識が,すでに社会の中で無意識に身体化している。
 しかし,実際は自己責任だけですべて語られるものではない。人が人生を選択し,進んでいく過程で有用な要素となるのは,教育環境,資本的リソースなど,外部因子によって決定されることも多い。
 当事者の苦しみの原因を内部的起因とするか外部的起因とするか。後者を考える際に重要なテクニックに,Externalizing of Problemがある。これは,ナラティブセラピーで最も有名なテクニックなのだそうだ。
 とりとめの無い話になってしまったが,結論を言えば,人は語ることで,客観的な真実ではないが,「その人ならではの真実」を紡ぎ,苦しみを昇華する方法を知っている,ということだ。
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聖書と能と古事記

最近ストレスで寝れません。

昨日は一日中疲労で意識朦朧としていて

森見登美彦の文章も頭に入ってこないような(これが一番腹立ったww)

そんな日だったのに、一晩中眠れず、もはや午前4時です。

空、明るいですww

元気にふるまっていても、色々抱え過ぎていて怒りで涙が出てくる。



話を本題に移します。

数か月前に、東京で神学を研究している院生とおしゃべりする機会があって、

こりゃキリストの勉強せな!!との思いに駆られて

キリストに関する本を買い漁った事があるんです。

それで、眠れない夜に、

久しぶりにその大量のキリストに関する本が所蔵されている本棚に手を出したんですよ。

ありました、岡田温司さんの本が。

あると思ったのよ。

私の知的好奇心が世の中を網羅しないわけがないじゃない。

それで、眠れない夜にぱらりとめくる。

『聖書と神話の象徴図鑑』。



心理療法で箱庭療法というものがあるのですが、

クライアントの作った箱庭の解釈は、

そのクライアントが生きてきた社会や宗教的背景から

すごく影響を受けると思うんですよね。

だって、仏教圏ないしは神道圏で育った私が仮に

箱庭にサクランボを乗せまくったとして

カウンセラーに「受難の象徴ですね」とか言われたらたまったもんじゃありませんからww

知りませんよそんなこと、ですよね。

ただ、どこの地域に行っても共通する象徴がある場合も考えられますよね。

それをユングのいう元型と言ってしまってもいいかはわかりませんが。

そもそもメタに考えてみると、

「象徴」という概念はなぜ存在したのかと。

どう形成していったのかと。

そもそもそんな概念は必要なのかと。

社会的に、後天的にインプリンティングされる知識でしかないのか。

あるいは先天的な次元の話なのか。

先行研究かもーーーーん!



余談が長すぎました、すみません。

私が心理学部生(心理学の語源)だからですかね、

それとも個人的に好きなテーマだからなんですかね、

一番最初にプシュケーのページを開く。

どんな解説になっているかしらと。

なんやら、

おしゅーとめさん(アフロディーテ)の

嫁いびりの話が書かれてありましたわww

プシュケーとは、この本では「魂」を意味していると書かれているが、

私は「吐息」を意味していると聞いているので、

そちらを引用したい。

というか、私はずっと、

プシュケーはアモールと愛し合ったと聞いていたので、

クピドの妻であったという話と微妙に違うので、

なぜプシュケーがクピドからアモールに乗り換えたのか

そこが知りたいですね。



それともう一つ。

ブロンズィーノの『愛の寓意』の象徴性が、

能の『三山』のテーマと似ている気がしたんですね。

『愛の寓意』は、私の解釈では簡単に言うと、

女は若いうちが花。Times go by.そしてその女の歴史は繰り返される。

『三山』のテーマもそう。

どこの国も変わらないな、と思いました。



それから、ルーベンスの『豊穣』。

この絵にはコルヌコピアという豊穣の角(つの)が描かれておりまして、

ケレスという豊穣の女神が中央に立っているのですね。

その絵には、角の穴からたくさんの果物が零れ落ちているのですね。

私は、ん?と思いました。

古事記にも出てくる話やん!と。

ただ、古事記は、本来伝わっていた話が、明文化される際に

かなり意図的に変えられてしまったという話もあるので一概には言えませんが、

肉体のあらゆる穴と言う穴から、食物を出す女性の神様がいて、

それを「汚らしい!」と言ってその神様を、男性の神様が殺してしまうという話が

古事記には残っているのですね。

その話とコルヌコピアは、似ている気がしたんですよね。


ユディト・コンプレックスと男系社会への復讐

いっこ前のブログの話には、続きがありまして。

私は、再びユディトの話を持ち出したいと思います。

ユディトに関しては先日のブログにも書きましたが、

旧約聖書外典の1つである『ユディト記』に登場するユダヤ人女性です。

そして、このユディトに関する心理学用語として、ユディトコンプレックスがあります。

ウィキペディアによると、女性には強い男に進んで身をまかせたい心理があるとされるが、

その一方で自分の操を汚した男を殺したい憎しみとが無意識に存在するとされるそうです。

この状態がいきすぎてしまうと、男性にどんどん汚される事で

逆転的に男性を傷つけようとすることがあるそうです。

この話を悶々と考えていると、溝口健二監督作品の『祇園の姉妹』、

深作欣二監督作品の『おもちゃ』を思い出すんですよね。

私は『祇園の姉妹』しか見たことはないのですが、

男に復讐しようとするものの、

結局は男社会に翻弄されてしまう女の物語。

わかりやすいほどにわかりやすいユディト・コンプレックスなんじゃないかと私は思います。

ユディト・コンプレックスは、一対一の男女関係では女は男に勝てるかもしれないけれど、

女系社会は男系社会に敗北するしかないという、

マルクスの友人、エンゲルスの記述にも繋がってくると私は思うのですね。

で、ここからが私の妄想癖の本領発揮なのですが、

女郎蜘蛛を彫った、女性と、

男性の強さを象徴した何かを(オリベスクとかそういう単純なものではなく)彫った男性が

セックスするとなると、

それはどのようなメタファになるか。

ユディト・コンプレックスはどのような物語を編纂するだろうか。

谷崎潤一郎とフェティシズムと獣姦の話

みなさまは、四神をご存知ですか?

私は、漢文学者の白川静さんが大好きなのですが、

白川さんの研究領域がすごく面白くてね。

私は絵を描くのはそんなに得意ではありませんが、

書道で宇宙を表現するのは好きでね。

文字というのは、全てを可視化するわけではなく、

想像力を掻き立てるものだと私は思っています。

それで今、インスピレーションに突き動かされるように

四神を文字で表現しているのですが、

それをしながら、谷崎潤一郎の『刺青』を思い出してね。

『刺青』の主人公は、自分の意思とは無関係に女郎蜘蛛を彫られた訳ですが、

男たちはその女とセックスすることで、間接的に女郎蜘蛛と交わるわけよね。

で、その「交わる」というのは、女郎蜘蛛に喰われて死ぬ、ということを暗喩しているわけですが。

でもそれが男女逆の立場になったら・・・と私は妄想族になってしまうんですけれども笑

男が自分の意思で、「自分と重ね合わせるようにして」、または

「自分を象徴するようにして」

何かを背中に彫るとしましょう。

それで、その男が女とセックスするとするならば、

その女は間接的にその男の刺青と交わるという形を取るわけです。

あんまりいい言葉ではないけれど、

もしそれが動物の彫物であれば獣姦のメタファ、

神の彫物であれば、そういうことになります。

完全に今日のブログはタブー満載な記述ですね。

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